表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

65/88

5:バルスカに炎咲く

風は止んでいた。

あの広大な平野地帯に、騒音はなかった。

だが、それは静寂ではなかった。

それは――戦争の予兆という名の、音の密度だった。


反乱軍は、首都までおよそ100キロの地点、鉄路と国道の交差する地点に到達していた。

古い地図では「クルィーロフ工業団地」と記されていたその地には、かつて弾薬と機械部品を製造していた工場群が、朽ちかけた鉄骨を晒し、廃墟のように横たわっていた。


かつて国を支えた手が、いまは何も握っていない。

その土地に、内務省軍は現れた。


彼らは制服を揃え、ヘルメットを傾けることなく前進していた。

無言の列は、軍ではなく、あたかも葬列のように整っていた。


反乱軍の前衛が最初にそれを視認したのは、午前5時22分。

霧の奥に幾つもの黒い点が現れ、それがやがて輪郭となり、編隊となって姿をあらわした。


「内務省軍」

この国でその名を聞く者たちは、戦場よりも、夜のドアノブや強制移送の汽笛を連想した。

だが今、それは野戦編成された実体を持ち、首都の命を守る楯として送り込まれてきた。


反乱軍は陣形を整えた。

その中心には、二両の装甲車と砲兵中隊、そして最前線にはプリレーピン本人がいた。


彼は双眼鏡を外し、わずかに笑った。

その表情は安堵ではなかった。

むしろ、長く待ち続けていた誰かに、ようやく会えたとでも言いたげな――そんな微笑だった。


「兵士よ、撃て」


最初の銃声は、内務省軍からではなかった。

プリレーピンの命令を受けた老狙撃兵が、一人の内務軍将校の胸を貫いた。


その一発が、眠っていた国家の沈黙を破った。


内務省軍は応答した。

整然とした歩兵列が展開し、煙幕を張り、装甲車が砲塔を回す。

その動きには訓練された正確さと、命令を絶対とする盲従の美学があった。


だが、それだけだった。


プリレーピン軍は、散開し、廃工場の影を利用し、旧鉄道トンネルに伏兵を置いた。

時間を操作したアラヤが、偵察ドローンの映像伝達を一瞬遅延させ、

ナユタが前線に設けられた対人地雷を重力の歪みで不活性化した。


内務省軍の最初の前進は、砕かれた。

その進行の律動は、静かに、しかし確実に崩れていった。


兵士たちは一人、また一人と、手にした銃を落とし始める。

それは命令違反ではなかった。

それは、彼ら自身のうちに芽吹いた、微かな実感――

自分たちが撃とうとしているのは、「敵」ではない。

同じ戦場に立ち、同じ国に見捨てられた者たちだという気づきだった。


プリレーピンの声は、銃声を超えて届いた。


「貴様らの敵は誰だ? この足のない兵士か? この空腹の少年兵か? それとも、この国を何一つ知らぬまま椅子に座り続ける“指導者”か?」


その問いに、誰も反論しなかった。

ただ一人、内務省軍の中佐が、目を閉じ、部隊無線機の送信機を切った。


その瞬間、国家の楯は沈黙した。


午後、戦闘は終わっていた。

死者は少なかった。

それが、最も奇妙なことだった。


工場跡地に、反乱軍の旗が掲げられる。

それは公式な国旗でもなく、革命の紋章でもなかった。

ただ、兵士たちが破れたシャツを縫い合わせ、銃弾で描いた即席の「目印」にすぎなかった。


ナユタは、それを遠くから見つめていた。


「あれも……記録のひとつ?」


アラヤは答えなかった。

ただ風が、焦げた弾薬の匂いとともに、彼女の髪を揺らしていた。

それは、国家の記録が追いつけぬ速度で――革命が進行している証だった。




戦線は崩壊ではなかった。

それは、ゆっくりと、だが確実に剥がれていく皮膚のようだった。

この国の神経系――鉄道、電話線、補給路――その全てが、いまやプリレーピンの名のもとに機能を取り戻しつつあった。


戦闘の中心は、首都南方の要衝、バルスカ野にあった。

そこは本来、内務省軍の第3防衛連隊と、火属性魔女分隊「紅炎のサウシャ」、独立電撃魔術中隊、さらには都市戦に特化したサイバネ特殊部隊である第21機械化スペツナズ大隊が集結していた地点である。

紙の上では、そこが首都防衛の最大の楯であるはずだった。


だが――現実は異なった。

彼らは全員、戦ったことがなかったのだ。




戦争とは物語ではない。

プリレーピンの下に集った兵士たちは、勝利の凱歌も、敗北の誓約も知らなかった。

ただひたすらに塹壕を掘り、爆風に手足を奪われ、同僚の死体に飯盒を載せて炊飯し、

腐った缶詰を一日二食で口にしながら、何も変わらぬ前線を五年、生き延びてきた。


「一度でも自分の血で靴がぬかるんだことのない者に、我々の射線は見えない」


それが、プリレーピンが兵たちに最初に語った言葉だった。




「紅炎のサウシャ」は、戦場に現れると同時に火柱を召喚し、反乱軍の前衛車列を焼き払おうとした。

だが、彼女の視界に入る前に、砲兵の射角が調整されていた。

一斉射――

155mm砲弾の散布界が火属性魔女の空域を寸断し、その軌道を予測された彼女は、逃げ場のない空中で一瞬にして肉体を焼かれ、骨ごと崩れ落ちた。


独立電撃魔術中隊は、戦場に電流を走らせながら戦車を麻痺させるべく展開したが、

彼女たちの前進は、装甲車の側部に設置された煙幕噴射機によって無効化された。

高濃度の金属粒子を含んだ煙霧が魔力干渉を反射し、魔女たちは互いに視認すらできないまま、味方の位置を誤認して崩れた。


第21機械化スペツナズ大隊は、都市戦においては無類の強さを誇った。

しかし、バルスカ野に都市はなかった。


平野に展開された数百名規模のサイバネ兵たちは、

地雷、迫撃砲、遠距離照準火器、そして撤退路を想定した誘導爆薬に囲まれ、

1時間以内に8割が行動不能となった。

残りは――最前線で捕虜となった。

サイバネの腕は、使い道がなければただの鉄塊だった。



アラヤはそれを遠望していた。

彼女の視線の先で、プリレーピンの軍は淡々と進撃を続けていた。

火柱も、電撃も、義肢も、記録に彩られた超常性の数々は、

ただ「生き延びた兵士たち」の実存の前に、何一つ機能しなかった。


「こんなの、もう……戦争じゃないわね」

ナユタが呟く。


アラヤは答えない。

その目の奥で、何かが燃えていた。


彼らの銃声には怒りもなく、彼らの行進には勝利の意志もなかった。

それはただ――帰る場所がない者たちが前に進むしかなかった結果だった。


そしてその結果こそが、

この国の「記録」にとって、最も忌むべき現実だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ