5:バルスカに炎咲く
風は止んでいた。
あの広大な平野地帯に、騒音はなかった。
だが、それは静寂ではなかった。
それは――戦争の予兆という名の、音の密度だった。
反乱軍は、首都までおよそ100キロの地点、鉄路と国道の交差する地点に到達していた。
古い地図では「クルィーロフ工業団地」と記されていたその地には、かつて弾薬と機械部品を製造していた工場群が、朽ちかけた鉄骨を晒し、廃墟のように横たわっていた。
かつて国を支えた手が、いまは何も握っていない。
その土地に、内務省軍は現れた。
彼らは制服を揃え、ヘルメットを傾けることなく前進していた。
無言の列は、軍ではなく、あたかも葬列のように整っていた。
反乱軍の前衛が最初にそれを視認したのは、午前5時22分。
霧の奥に幾つもの黒い点が現れ、それがやがて輪郭となり、編隊となって姿をあらわした。
「内務省軍」
この国でその名を聞く者たちは、戦場よりも、夜のドアノブや強制移送の汽笛を連想した。
だが今、それは野戦編成された実体を持ち、首都の命を守る楯として送り込まれてきた。
反乱軍は陣形を整えた。
その中心には、二両の装甲車と砲兵中隊、そして最前線にはプリレーピン本人がいた。
彼は双眼鏡を外し、わずかに笑った。
その表情は安堵ではなかった。
むしろ、長く待ち続けていた誰かに、ようやく会えたとでも言いたげな――そんな微笑だった。
「兵士よ、撃て」
最初の銃声は、内務省軍からではなかった。
プリレーピンの命令を受けた老狙撃兵が、一人の内務軍将校の胸を貫いた。
その一発が、眠っていた国家の沈黙を破った。
内務省軍は応答した。
整然とした歩兵列が展開し、煙幕を張り、装甲車が砲塔を回す。
その動きには訓練された正確さと、命令を絶対とする盲従の美学があった。
だが、それだけだった。
プリレーピン軍は、散開し、廃工場の影を利用し、旧鉄道トンネルに伏兵を置いた。
時間を操作したアラヤが、偵察ドローンの映像伝達を一瞬遅延させ、
ナユタが前線に設けられた対人地雷を重力の歪みで不活性化した。
内務省軍の最初の前進は、砕かれた。
その進行の律動は、静かに、しかし確実に崩れていった。
兵士たちは一人、また一人と、手にした銃を落とし始める。
それは命令違反ではなかった。
それは、彼ら自身のうちに芽吹いた、微かな実感――
自分たちが撃とうとしているのは、「敵」ではない。
同じ戦場に立ち、同じ国に見捨てられた者たちだという気づきだった。
プリレーピンの声は、銃声を超えて届いた。
「貴様らの敵は誰だ? この足のない兵士か? この空腹の少年兵か? それとも、この国を何一つ知らぬまま椅子に座り続ける“指導者”か?」
その問いに、誰も反論しなかった。
ただ一人、内務省軍の中佐が、目を閉じ、部隊無線機の送信機を切った。
その瞬間、国家の楯は沈黙した。
午後、戦闘は終わっていた。
死者は少なかった。
それが、最も奇妙なことだった。
工場跡地に、反乱軍の旗が掲げられる。
それは公式な国旗でもなく、革命の紋章でもなかった。
ただ、兵士たちが破れたシャツを縫い合わせ、銃弾で描いた即席の「目印」にすぎなかった。
ナユタは、それを遠くから見つめていた。
「あれも……記録のひとつ?」
アラヤは答えなかった。
ただ風が、焦げた弾薬の匂いとともに、彼女の髪を揺らしていた。
それは、国家の記録が追いつけぬ速度で――革命が進行している証だった。
戦線は崩壊ではなかった。
それは、ゆっくりと、だが確実に剥がれていく皮膚のようだった。
この国の神経系――鉄道、電話線、補給路――その全てが、いまやプリレーピンの名のもとに機能を取り戻しつつあった。
戦闘の中心は、首都南方の要衝、バルスカ野にあった。
そこは本来、内務省軍の第3防衛連隊と、火属性魔女分隊「紅炎のサウシャ」、独立電撃魔術中隊、さらには都市戦に特化したサイバネ特殊部隊である第21機械化スペツナズ大隊が集結していた地点である。
紙の上では、そこが首都防衛の最大の楯であるはずだった。
だが――現実は異なった。
彼らは全員、戦ったことがなかったのだ。
戦争とは物語ではない。
プリレーピンの下に集った兵士たちは、勝利の凱歌も、敗北の誓約も知らなかった。
ただひたすらに塹壕を掘り、爆風に手足を奪われ、同僚の死体に飯盒を載せて炊飯し、
腐った缶詰を一日二食で口にしながら、何も変わらぬ前線を五年、生き延びてきた。
「一度でも自分の血で靴がぬかるんだことのない者に、我々の射線は見えない」
それが、プリレーピンが兵たちに最初に語った言葉だった。
「紅炎のサウシャ」は、戦場に現れると同時に火柱を召喚し、反乱軍の前衛車列を焼き払おうとした。
だが、彼女の視界に入る前に、砲兵の射角が調整されていた。
一斉射――
155mm砲弾の散布界が火属性魔女の空域を寸断し、その軌道を予測された彼女は、逃げ場のない空中で一瞬にして肉体を焼かれ、骨ごと崩れ落ちた。
独立電撃魔術中隊は、戦場に電流を走らせながら戦車を麻痺させるべく展開したが、
彼女たちの前進は、装甲車の側部に設置された煙幕噴射機によって無効化された。
高濃度の金属粒子を含んだ煙霧が魔力干渉を反射し、魔女たちは互いに視認すらできないまま、味方の位置を誤認して崩れた。
第21機械化スペツナズ大隊は、都市戦においては無類の強さを誇った。
しかし、バルスカ野に都市はなかった。
平野に展開された数百名規模のサイバネ兵たちは、
地雷、迫撃砲、遠距離照準火器、そして撤退路を想定した誘導爆薬に囲まれ、
1時間以内に8割が行動不能となった。
残りは――最前線で捕虜となった。
サイバネの腕は、使い道がなければただの鉄塊だった。
アラヤはそれを遠望していた。
彼女の視線の先で、プリレーピンの軍は淡々と進撃を続けていた。
火柱も、電撃も、義肢も、記録に彩られた超常性の数々は、
ただ「生き延びた兵士たち」の実存の前に、何一つ機能しなかった。
「こんなの、もう……戦争じゃないわね」
ナユタが呟く。
アラヤは答えない。
その目の奥で、何かが燃えていた。
彼らの銃声には怒りもなく、彼らの行進には勝利の意志もなかった。
それはただ――帰る場所がない者たちが前に進むしかなかった結果だった。
そしてその結果こそが、
この国の「記録」にとって、最も忌むべき現実だった。




