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4:動乱

行進は、号令によって始まったわけではなかった。

それは冬の終わりに雪が解けるように、あるいは洪水の前夜に川の水位がわずかに変化するように、

目に見えぬ圧力の変化として、世界の肌の下で静かに生じていた。


ロスノフの町を出た反乱軍は、当初わずか六百名だった。

手にした武器も、外見も、戦列の間隔すらまばらで、国家の定義する「軍」とは程遠かった。

だが彼らには、いずれの軍にも欠けているもの――帰るべき場所の喪失感という、純粋で汚れのない怒りがあった。


そして、その怒りには言葉が与えられていた。

プリレーピンの詩は、どの演説よりも早く民衆の胸に届いた。


「誰も我らを祝福しなかった。

だが我らは、帰るという行進を始めた。

国家が背を向けても、我らの背は折れていない」


この詩の断章が、印刷所もない村々を越え、手書きの紙片として伝播した。

スピーカーもなく、放送局もない町で、それは母親の口から子どもへ、

失職した教師の手から、バスを運転する元兵士の耳へと届いていった。


初めは誰も信じなかった。

だが、進軍が本物であることを証明したのは、その「音」だった。


靴底が舗装されていない国道を叩く音。

車軸が軋む音。

誰かが口ずさむ、聞いたこともない新しい行進歌。


その音が近づくたび、ある町では市民が道路の左右に立って見送った。

ある町では失業していた鉱夫たちがシャベルを手に合流し、

別の町では看護婦たちが赤十字の腕章を外し、反乱軍に包帯を渡した。


国の中枢が沈黙する中、民衆は言葉を持たずに賛同し始めていた。

それは記録には載らない支持だった。

報告書にも、官製の統計にも、その名は刻まれなかった。

だがそれこそが、国家にとって最も危険な支持だった。


アラヤとナユタは、南から進軍する本隊と距離を保ちながら、幾つかの補給線を並走していた。


ナユタは橋梁を渡る輸送車列の重さを軽減するため、

重力を偏向させ、車両を川霧のように滑らせる。

その間にアラヤは、補給隊に紛れた密偵を無力化し、郵便局に残された周波数コードを塗り替えていた。

彼女の能力が生きるのは、目に見えぬ「記録の継ぎ目」だった。

そこを断てば、国家の通信網は分断され、無音のまま動かなくなる。


そして夜、仮設の野営地。

ナユタは空に浮かぶ観測ドローンを操りながら、星座のように散らばる小さな反乱支部の灯りを見下ろしていた。


「……繋がってきたわね」


「まだ、ほんの一部よ」


アラヤはその隣で地図を眺めていた。

地図ではない。記録国家の内臓を描いた病理図のようなものだった。

各地の燃料供給点、兵站中継所、鉄道網、そして「四人組」が保有する中央通信帯――

それらはまるで内臓を守る鎧のように国家中枢を取り巻いていた。


「ここから先は、彼らがどう動くかね」


「モーリスは“待つな”って言ってた。動けるなら、動いておけって」


「……モーリスらしいわ」


言葉はそれだけだった。

アラヤの視線の先では、ある小さな町のバス車庫から、数十人の労働者が列を作って歩き出していた。

手には弾薬箱を担ぎ、首には古びた毛布を巻き、

誰も行き先を告げないまま、進軍に加わっていく。


国家はまだ「反乱」とは呼んでいなかった。

その名を与えるには、記録に記すには、早すぎる段階だった。


だが、アラヤには確信があった。

この行軍は風のように進む。

記録に抗う者たちの風は、どんな壁も時間も、回り込んで進むことができるのだ。


そしてその風の最終目的地は――あの首都であることを、誰もが知っていた。






首都中枢「大理石宮」高官用喫煙室。

午後四時、霞のような陽光が大理石宮の回廊を撫でていた。

だが、館内の空気は、午後の光とは裏腹に重苦しかった。


喫煙室には4人の影があった。

黄銅製の灰皿には灰の山。旧式の給仕車からは煙草の香とアルコールがしみ出ている。

会議の名を持たない会話。だが、それはこの国の中枢を支配する者たちにとって、何よりも現実的な権力の形式だった。


最初に口を開いたのは、灰色の背広を着た第二書記だった。


「お前、また我々に断りなく何かしでかしてるな」


声は静かだった。

しかしその声色には、憤怒ではなく、確信に近い嫌悪が滲んでいた。


向かいの椅子に腰掛けていた内務委員長は、軽く笑った。

その笑いには煙と同じだけの冷たさがあった。


「さて、何のことやら。妄想は健康に悪いぞ」


第二書記は灰皿で葉巻をもみ消すと、まるで誰にも向けずに言葉を漏らした。


「我々に事後報告なのは致し方ないかもしれんが……スターリンにそれは通じんぞ」


「心配には及ばないつもりだ」

内務委員長の返答には、嘘ではなく、何か用意された既成事実のような響きがあった。


喫煙室の壁際で沈黙を守っていた首相が、軽く咳払いをする。

彼は日焼けした手の甲で額のアザを拭いながら言った。


「どうもここ数日、鉄道の様子がおかしい。ただの戦後の混乱とは違う気がする」


第二書記が首を傾げる。「帰還兵の復員はまだ先のはずだが?」


「その件は私の職掌だ」

と、即座に割って入ったのは内務委員長だった。

「大方、ネズミが入り込んでサボタージュでもしているんだろう。綱紀粛正が必要だな、首相」


「しかし……」

首相はわずかに口ごもった。

「鉄道省が内務省の監査を受けるというのは、いささか制度的には越権に…」


「制度が現実を裁けると、いつから思い込んでいるのかね?」

内務委員長の声音は変わらなかったが、その目だけが笑っていなかった。


そのとき、扉が乱暴に開かれた。


秘書官の一人が小走りで近づき、第二書記の耳元に何かを囁いた。

そのささやきが終わるまでの数秒間、喫煙室の空気は氷のように凍りついていた。


やがて第二書記は、重い背をゆっくりと椅子から起こすと、言った。


「なるほど……では、ヘリを用意してくれ。そうだな……第1紅衛戦車師団を動かした方が良いかもしれん」


外務大臣が静かに眉を上げた。

「何かトラブルでも?」


「国家の非常事態だ」

第二書記の声はもはや、個人の発言ではなかった。

「スターリンに陸軍を動かすよう内奏する」


「待て」

内務委員長が足を組み直しながら言う。

「その件は私の職掌だ。まずは内務省にやらせてもらう」


「ほう……内務省軍にやらせると?」

第二書記の口元がわずかに歪んだ。


「ただの内弁慶の兵隊ではない。この時のために用意していたようなものだからな」

その言葉には、計画の周到さとともに、ある種の嗜虐的な期待があった。


第二書記は一度だけ、長く息を吐いた。

その煙は、まるで記録の中にまで染み込んでいくように喫煙室を漂った。


「では――お手並み拝見といこう。私は現地指導に赴く。何よりこの首都を守らねばいかんのでね」


言葉の余韻だけを残して、第二書記は喫煙室を去った。

扉が閉まったあと、わずかに揺れる灰皿の縁。


その瞬間、内務委員長は煙草を再び咥え、火をつけた。

火が燃え上がる音は小さく、しかし確かに燃焼の始まりを告げていた。


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