2:ロスノフの淵にて
男は焚火の赤に背を向けたまま、こちらを振り返った。
その顔に驚きや警戒はなかった。ただ、黙して見つめる眼差しがあった。
歴戦の兵士が時にそうするように、言葉より先に、沈黙を差し出していた。
「君が、例の魔女姉妹か」
声は低く、わずかに掠れていた。煙草の影か、それとも喉の奥に燻ぶる炎か、判別のつかない熱を帯びていた。
アラヤは黙って一枚の封筒を差し出した。紙質は古び、縁には雨染みが浮かんでいる。
「これがモーリスからの伝言」
プリレーピンは受け取り、封を切る。紙片を開いた彼の目が、焚火の明滅に照らされて細められる。
数行だけの指示。だが、その文面が何を意味するのか、男はすぐに理解したようだった。
「……まだ何もかも足りない。食糧も、薬品もな。義足も足りてないから介護の手も必要だ。このままだと、伝染病が広がって、我々は祖国にいながら土に還される」
声には怒りがなかった。だが、それは諦めではない。静かな断言。もはや感情という形式に頼る必要のない者だけが持つ声だった。
アラヤは応じた。
「ひとまず食糧については、モーリスが段取りをつけてる。時期に――ハムやチーズを満載した貨物列車がここに着くはずよ」
プリレーピンの眉がわずかに動いた。
「それは助かる。だが……一体どんな魔法を使った? それだけの量があれば、市中の人民商店には三日前から徹夜の行列ができる」
「『革命の前衛』用に備蓄されてたものよ。ある幹部と取引して、外車を一ダースほど渡したって」
男はふっと笑った。皮肉にも、賞賛にも聞こえない、砂を噛むような笑みだった。
「素晴らしいな」
焚火がはぜた。火花が宙に跳ね、二人の間を通り過ぎて消える。
「で、本当に首都に向かう気なの?」
アラヤの問いに、プリレーピンは煙草を取り出し、火をつける。
吸い込んだ煙の熱が肺に落ちていく。その沈黙は、ひとつの答えに等しかった。
「無論だ。この国の鉄道はすべて首都を経由しなければ、どこにも行けない。兵士たちを家に帰すには、あそこを通るしかない。だが――祖国は我々が首都の敷居を跨ぐのを、決して許したくはないらしい」
アラヤは視線を外に向けた。キャンプの外れ、崩れたフェンスの向こうで、若い兵士が空の鍋を火にかけていた。
その顔に、希望はなく、絶望すらなかった。ただ、今をしのぐしかないという結論だけが貼りついていた。
「まあ……どんなに記録を糊塗しても、こんなみすぼらしい現実は、支配者にとっては不愉快でしょうね」
アラヤは口を閉じ、しばし沈黙したまま、外の景色に目を据えた。
やがて、再び口を開く。
「首都に行って、スターリンに直訴するつもり?」
プリレーピンは煙を吐き出しながら言った。
「いや。スターリンに何を言っても、変わりはしない。重要なのは――行動を起こすことだ」
火が揺れる。灰が風に乗って舞い上がった。
「そもそもスターリンが実権を持っているはずがない。あんな少年だ。戦争を泥沼に変えたのも、兵士たちを死なせたのも、全てはその取り巻き――『四人組』が原因だ」
「四人組……?」
「第二書記、内務委員長、首相、外務大臣。今の政治はこの四人で動いている。スターリンはただの飾りだ。だから我々は首都を目指す。あの腐った官僚どもに現実を叩きこむためにな」
アラヤは火の中を見つめた。薪が爆ぜるたびに、彼らの背後にある国そのものが、ひび割れていく音がしたようだった。
「首都に攻め入るってこと?」
「正義の行進だ。我々には、きっと同調する者たちが現れる。モーリスも、そう言っている」
アラヤは、静かに頷いた。
「そうね……」
プリレーピンは煙草を指で弾いて地面に落とし、靴の踵で踏み消した。
「君に、少し働いてもらいたい。いいかな?」
アラヤは答えた。
「構わないわ」
男は頷いた。軍の号令のように無駄のない動きで立ち上がる。
「では――決まりだ。早速始めよう」
火はまだ消えていなかったが、炎の色は、先ほどよりもいくぶん深かった。




