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10:春よ来い

朝は灰色だった。

雲は低く垂れ、陽は昇っていたはずなのに、影すらできなかった。

砂峡地帯の戦場にはもう砲声はなかった。発砲も、命令も、反撃も、消えていた。


王室連合の諸侯たちは昨日、密命で空路帰還した。

帝国の戦略局は、通信網の復旧を待たずに撤退命令を出した。

連盟の現地軍評議会は一行の通達を残して解散した。


《作戦は完了せり。以後の行動は現地判断とする》


兵士たちは、誰もそれを読まなかった。読むべき端末は焼け、届けるべき者はすでにいなかった。

無線には「応答なし」が繰り返されるだけ。

それを指差す者も、もういなかった。




ダブカ南部、焼け落ちた検問所跡にて。

アリフはひとり、瓦礫の上に立っていた。

その手には銃があった。だが引き金には指をかけていない。


対面にいるのは、疲れ果てた兵士たちだった。

かつて帝国の第44予備連隊に所属していた者たち。

その制服はもはやぼろきれで、靴は裂け、銃は肩からぶら下がっているだけだった。

彼らは動かず、逃げず、ただ立っていた。


アリフの手が震えていた。

「……どうして、撃たない?」


兵士のひとりが答えた。

「命令が、来ない。……もう、何と戦っていたかも分からない」


アリフは銃を見つめた。

それはアラヤから渡されたものだった。

殺すためではなく、「奪われぬための武器」だと教えられた。


だが今、誰も何も奪おうとしていなかった。


彼は、ゆっくりと銃を下ろした。

足元の砂が乾いていた。

太陽はまだ昇らない。


「……これが……正しかったのか?」


問いは空に向けられたものではなかった。

だが空は、それでも答えなかった。



アラヤは、残された飛行船の甲板にいた。

もう送信は終わった。プロジェクトは完了していた。

地図が変わったわけでもなく、国境線が塗り直されたわけでもない。

だが、戦争は終わっていた。


自然崩壊という名の終戦。

誰も「終わり」を宣言しなかった。

ただ誰も、もう戦おうとしなくなった。

それが、現実だった。


アラヤは風を受けながら、低く言葉を落とした。


「記録にすら残らぬ革命。

誰が始めたのか、誰が導いたのか、誰が終わらせたのか。

何ひとつ残らない。

だが、それは確かに世界を変えた」


その声は風に消えた。

誰にも聞かれることなく。

だが確かに、そこにあった。


「火ではなく、影によって」


夜の戦争は終わった。

太陽は、やがて昇るだろう。

記憶と忘却のあいだに、ひとつの名が残るかもしれない。

それがたとえ誰にも記されないとしても。






廃墟となったナールの酒場は、かつて戦火を逃れた人々が身を寄せた石造りの建物だった。

今は照明もなく、天井の梁から吊るされた裸電球が、ぼんやりと室内を照らしている。

壁には焦げ跡と弾痕が残り、カウンターの木目には乾いた血の筋があった。


その中で、モーリスは黙ってビールをあおっていた。

薄暗い空間に、彼の吐く煙草の煙がたゆたう。

隣にはアラヤ。ナユタと数人の少年兵たちは奥のテーブルで踊りながら笑っていた。

音楽もないのに、手拍子と笑い声だけがリズムを刻んでいた。


アラヤの視線はグラスの底を見つめたまま、言葉を吐く。


「ねぇ、モーリス」


「何かな」


その返事はいつもの調子だった。

だが、アラヤの声音には熱がなかった。


「私たちが育てた少年兵も、散々ばら撒いた革命の情報も……これから、どうなると思う?」


モーリスはビール瓶をカウンターに置いた。

喉の奥に引っかかった炭酸の気泡が、最後に小さく弾けた。


「どうもならないさ。彼らは彼らの言葉で、それを再拡散し続けるだろう。

 我々が教えたものは、もう戻せない。

 革命は、始めた者ではなく、巻き込まれた者の手で終わるしかない」


アラヤは少し口元を歪めた。

その横顔には、疲れと、それ以上に迷いが見えていた。


「私たち……これで良かったの?」


モーリスは煙を吐いた。

光に照らされた灰色の帯が、まるで漂う亡霊のように天井へと昇っていった。


「世界にとっては、取るに足らない犠牲だよ。

 少なくとも、この革命があったことで、あの糞のような戦争はようやく終わる」


「……でもこの地で燃え広がった炎は、まだ消えてないわ」


「いずれ起こる火事だったさ。

 火種は我々とは関係なく転がっていた。

 我々は風になって、それを煽ったに過ぎない」


その言葉には理があった。だが、それ以上の温度はなかった。

アラヤはモーリスの横顔を見た。

戦場に言葉を撒き、情報で人の心を焼いた男の顔に、後悔も喜びもなかった。


「本当……そう言える?」


モーリスは答えなかった。

その代わりに、ナユタの笑い声が場を満たした。

少年兵たちと共に、手を取り合って踊る少女。

銃ではなく手拍子で、命令ではなく笑顔で、戦いの終わりを祝っていた。


だがアラヤには、それがあまりに眩しすぎた。


自分たちが導いたのは、本当に“終わり”だったのか。

この混沌の果てに何があるのか、それはまだ見えなかった。


もしかしたら――とアラヤは思う。


この革命以前の世界は、たしかに歪んでいた。

欺瞞に満ち、宗主国が干渉を繰り返し、民衆は声すら持てなかった。

それでも、今よりはずっと“静か”だった。

安寧とは呼べずとも、傷を広げないだけの均衡があった。


あれは偽物だったのか、それとも本物だったのか。

問いを繰り返すたび、答えは遠のいた。


アラヤはそっと目を閉じた。

ナユタの手を取り、踊る少年兵たちの中に、かつてシャファルで笑っていたアリフの顔が重なった。

もう戻らない時間。もう戻せない命。


それでも、世界は回り続けていた。

それだけは、誰にも止められなかった。

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