9:Ultima Ratio
赤砂の吹き荒ぶ国境道、ナユタの操縦する旧型の四輪駆動車は、無数の塵と叫びを巻き上げながら舗装の剥げた道を滑っていた。
西陽が車体に斜めから照りつけ、銃痕だらけのドアが赤く錆びたように光る。後部座席には黒い布で覆われた金属ケース──EMPの名残がひとつ、積まれていた。
アラヤは助手席で何も言わず、カウントの入った端末を見ていた。
「あと4分で衛星再接続が始まる。連盟が位置情報を取り戻す。捕まらないようモーリスの飛行船に合流よ」
ナユタは表情を変えずに応じた。「4分あれば、ひと山くらいは撒けるかなぁ」
そのとき、背後の地平線が破られた。
二台のジープと、低空を舐めるように迫るステルス仕様の軍用ヘリ。連盟のアルファ部隊。特務作戦を専門とする“影喰い”たち。
ナユタは急ブレーキをかけ、ハンドルを切る。タイヤが砂利を跳ね、車体が一瞬傾く。
後方のジープはその動きを予測していなかった。砂丘の凹みに前輪を取られ、横倒しになって炎を上げた。
だがもう一台が追走を止めず、加速した。ジープのフロントには、歪んだ兵装ユニットを背負う強化兵士の影が見えた。
そして、空が音を失った。
ナユタが深く息を吐くと、次の瞬間、重力の層が折れた。
ジープの中の兵士たちの動きが歪み、銃を構える腕がわずかに遅れる。だがその遅れをもってしても、ひとりだけがそれを打ち破っていた。
空から落ちたように、ババヤガ=22が現れた。
まるで軌道計算すら超越した存在のように、重力と時間の壁をすり抜け、ナユタの操る空間に侵入していた。
気がつけば、アラヤの隣にもうひとつ影が座っていた。
女か老人か、判別不能な顔貌。複数の声帯が同時に囁くような声が、鼓膜を震わせた。
「あなたは、時を盗む。だが私は、“盗まれた未来”を知っている」
アラヤは何も言わなかった。言葉は、遅い。
代わりに腰の拳銃を抜き、ババヤガの膝下を狙った。
弾は直撃したが、ババヤガの肉体は無数の記録の断片のように崩れては戻る。まるでその存在が“確定”していないかのように。
ナユタは車内の空間座標を歪めた。
内部からの干渉で一瞬、重力方向が逆転し、ババヤガの身体が天井へ吸い寄せられる。
その隙にアラヤが拳で喉元を打ち抜く。音を立てず、彼女は車外へ投げ出された。
それでも、勝利の余韻は一秒しか続かなかった。
上空からヘリのサーチライトが照射され、警告音が車内に満ちた。
アラヤは言葉より早く、後部のケースを開けた。
中には一機の携行型地対空ミサイル──旧式のストレラ改造型。
「発射」
アラヤはミサイルを肩に担ぎ、車体のサンルーフから撃ち放つ。
白煙を引いた弾頭が旋回し、ヘリの右旋翼へと吸い寄せられる。
だが、ヘリのパイロットはただの操縦者ではなかった。
機体が蛇のように旋回し、弾頭を誘導ジャマーで振り切る。爆発が夜空に散り、熱波が道路をなでた。
「逃げ切れる」
ナユタがそう呟き、アクセルを踏み込む。後方に煙と熱と沈黙を残して、車は次の谷へと滑り込んでいった。
そのころ、遠く離れた聖堂の離着陸場。
飛行船の格納口では、誰にも気づかれず、ナニー・ナニーが乗り込んでいた。
彼女の足音は床にすら届かず、日傘だけが静かに揺れていた。
その口元には、母親のような微笑みがあった。
だが、その指先には、レイピアに変わる刃が呼吸するようにうねっていた。
“おやすみなさい”を告げる準備を整えて──彼女はただ、標的の心臓が鳴る音を待っていた。
飛行船は、月を背に、砂峡の深夜を這うように進んでいた。
船腹の通信ポッドから吐き出される暗号化された信号は、夜の風に乗って各地の受信ノードへと拡散され、神殿、バザール、地下通信網へと静かに浸透していった。
「これより第三波。信号域リダイレクト完了、フェイズ・オーバーラップ可能」
モーリスは端末に指を走らせながら、モニターの波形に目をやっていた。
彼の声は冷静だったが、その背後で空調の異常な鼓動が微かに脈打ち始めていた。
「これより第三波。信号域リダイレクト完了、フェイズ・オーバーラップ可能」
モーリス・アートマンは、コクピットの管制台に並ぶ波形モニターに視線を走らせながら、指先でタイピングを続けていた。
その顔は無感情だった。だが機体の空調ユニットが唸るような低音を刻みはじめたとき、彼の眉が一度だけ動いた。
背後のハッチが、静かに開いていた。
異変に気づいたのは、ほんの一拍遅れてからだった。
その“遅れ”を、彼女は正確に狙っていた。
ナニー・ナニー。
その笑みは赤子を眠らせる微笑みでありながら、死の前口上のようでもあった。
リボンのように揺れる日傘が、その手の中でゆっくりと刃へと変形する。
レイピアは生き物のようにうねり、目の前の空間を裂こうとしていた。
「おやすみなさい、モーリス様。悪い子には夢を見せてあげないと」
だがその瞬間、すべてが凍った。
モーリスの胸を貫くはずだった一撃は、空中に吊るされたまま静止した。
ナニーの髪も、動きかけた銃の引き金も、全てが時間の膜に包まれたように止まっていた。
アラヤだった。
その目は冷えた湖のように澄んでいたが、言葉より先に行動がすべてを制した。
時間停止はわずか数秒しか持たなかったが、それで十分だった。
拘束が解け、アラヤはモーリスの前に割って入った。
だが、時間が再起動した瞬間、ナニーの左手のリボルバーが閃いた。
発砲音。パイロットの肩が赤に染まり、キャノピーのガラスが砕けた。
気圧が崩壊し、風が怒声のように吹き込む。
ナニーは迷いなく跳ね、後方通路へと退いた。
モーリスが操縦桿を奪い返し、コクピットに体を固定させながら操縦を引き継ぐ。
「制御はまだ生きている。プロジェクトは続行する」
その言葉に応じるように、再送信のシグナルが緑に点灯した。
飛行船の深部、フローティングタンクの保管区画。
巨大なヘリウムガスの球形容器が並び、その中でナニーは再び日傘を展開した。
刃がしなやかなリボンに変形し、タンクの一つをなぞるように滑らせる。
アラヤとナユタがそこへ到達したとき、空気は既に変質していた。
「アイツなんのつもり?」
ナユタの声に、アラヤは応じる。「プランBよ。飛行船ごと落とすつもり」
アラヤはナイフを抜いた。銃火器は、ここでは引火の危険が高すぎた。
ナユタが背後で重力を増幅し、アラヤの体を加速させる。
一閃。鋭く放たれたナイフが、ナニーへと迫る。
だがナニーのレイピアもまた、遊戯のような動きでそれを受け止める。
火花が散る。刃と刃が押し合い、笑みと沈黙が交錯する。
「おやおや、そんなに怒らなくても……少し、遊びましょうか?」
ナユタは再び空間重力を操作し、ナニーを壁へと押し付ける。
だがナニーの刃がリボン状に解け、アラヤの体に巻きつく。
二人は壁へと激突し、鉄と骨が軋んだ音を立てた。
ナニーの銃が衝撃で滑り、ナユタの足元へと転がった。
ナニーが囁く。「でもこれでは撃てませんわねぇ」
アラヤは呻くように返した。「そうでも……ないわ」
ナユタが銃を拾い、ナニーと巻き込まれたアラヤに銃口を向ける。
「武器を捨てて!」
ナニーは微笑む。「お友達に銃を向けるなんて、悪い子ですね。おしおきが必要ですわ」
アラヤは静かに言った。「ナユタ、私に構わず撃って」
一瞬の沈黙。互いの視線が、氷のように交錯した。
次の瞬間、アラヤの時間停止が起動した。
空気が止まる。ナニーの呼吸も、重力のゆらぎも、音すらも。
その凍った刹那の中で、アラヤは巻き付いたリボンを切断し、飛び退く。
そして、時が再起動した瞬間、ナユタが引き金を引いた。
銃弾はナニーの腿を掠め、赤い線を残した。
「痛い、ですわね」
ナニーの顔が歪み、それでも崩れなかった笑顔の奥に、怒気が混じった。
アラヤが再びナイフを構え、追い詰めようとした瞬間だった。
飛行船の壁が破裂し、無数の弾痕がフローティングタンクに穴を穿った。
白煙と熱風が奔流のように吹き出す。
「また別の攻撃……?」
アラヤの声がかき消され、ナユタが叫ぶ。「逃げるよ!」
ナニーは踊るように通路を駆け抜け、破損した壁の裂け目に身を投げた。
飛行船の外、夜空へと。
アラヤが銃を構えて外を覗くと、武装ヘリコプターが旋回していた。
スキッドにはナニーがしがみついていた。赤い月が彼女の姿を照らしていた。
「逃げられた……」
ナユタが呟く。
アラヤは静かに頷いた。「飛行船の高度がもたないかも。モーリスのところに戻る」
操縦席のモーリスが振り返らずに言った。
「再送信可能だ。プロジェクトは――続行できる」




