8:ナニー・ナニー
砂の風が吹き抜ける中、シャファル村の焼け跡はすでに死の匂いすら乾ききっていた。
かつて土壁で囲まれたこの小さな集落は、いまや炭化した梁と骨だけの風景に変わっていた。
少年たちがかつて訓練に励んだ広場の中央。そこにうつ伏せに倒れた一体の小さな遺体が、焦げた銃を握ったまま静かに横たわっていた。
セレスティン・バードリッジは、焼けた瓦礫の傍らに膝をついた。
白銀の手甲が煤でくすんだ亡骸にそっと触れる。
少年の顔はまだ残っていた。目を閉じたまま、眠るように。
「これが……“革命”のやり方か」
声は、怒りでも悲しみでもなく、静謐に削られていた。
「ならば、正義は我らが奪う」
その後ろで、赤い傘をくるくると回す女の声が響いた。
「おやおや、おいたが過ぎたのですね。悪い子には、おやすみのお薬が必要ですよぉ」
ナニー・ナニーの声は、子守唄のように柔らかく、毒が溶けた蜂蜜のように甘かった。
彼女は地面の死体に目をやることなく、傘を閉じ、土に突き立てた。
その傘はすでに変形を始めていた。リボン状に解け、空気を切る刃に変わる兆しを見せていた。
「奴らは飛行船で動いている。市民に向かって空から声を撒き、群衆を焚きつけているらしい」
セレスティンはゆっくりと立ち上がる。
白い軍衣の裾を直しながら、砂の方角を見た。
「“白うさぎ”の飛び方だ。痕跡はないが、確実に奴らは近くにいる」
「お空から降ってくる言葉で、お人形みたいに動かされて……あらあら、それは困りましたわねぇ」
ナニーは背筋を伸ばし、微笑を深めた。
「先生、しつけが必要ですか?」
「その通りだ」
セレスティンは、手袋を嵌め直す動作を止めずに言う。
「目標はモーリス・アートマン。“白うさぎ”の首魁。王室連合が第一級テロリストとして指定している」
「生きたまま?」
ナニーの瞳がすっと細まった。甘さの中に、僅かに鋼の光が宿る。
「できれば生け捕りで頼みたい。拠点と目される飛行船の発進地点は割れた。阻止されるかもしれないが――君ならできると信じている」
ナニーはゆっくりと傘を引き抜いた。
それはもう、ただの傘ではなかった。
幾重にも重なったリボン状の刃が風に舞い、彼女の背に咲く血のような花となっていた。
「わかりましたわ。じゃあ、これから“おしおき”に参ります」
口調は微笑のまま、殺意だけが鋭く咲き誇っていた。
セレスティンは背を向けた。
その足元に、少年の遺体はまだ横たわっていたが、彼女はもう二度と見ようとはしなかった。
代わりに、その命の果てを、正義という名の炎にくべるため、前を向いて歩き出した。
彼らの背後で、焼け焦げた村は風に溶け、誰の記録にも残らない歴史へと沈んでいった。
月明かりが乾いた廃墟の角を照らしていた。
焼けた煉瓦と崩れた尖塔が、まるで地平から突き出た骨のように並んでいる。
そこに、ふたりの影が対峙していた。
風のない夜だった。砂は舞わず、時間だけが静かに流れていた。
マルクスのブーツが瓦礫を踏みしめる音が、乾いた音を立てて響いた。
その目は、まっすぐアラヤを見ていた。
彼女は塹壕の縁に腰をかけ、解体途中の銃器のボルトを指で回していた。
どちらも銃を構えなかった。だが、空気の密度だけが、徐々に鋭くなっていく。
「君たちは記録を壊す」
マルクスはそう言った。
声に怒りはなかった。ただ、研ぎ澄まされた観察者の眼差しがそこにあった。
「だが、世界は忘れない。記録を燃やしても、誰かが語る。
砂に書かれたことすら、風が語り継ぐ。君の思惑とは関係なく」
アラヤは視線を上げず、静かに言葉を返した。
「ならば、忘れられるまで書かせない」
ボルトが彼女の指先から落ち、砂に沈んだ。
「語り手が消えるなら、物語も消える。誰かが語るなら、その口を閉じさせる」
マルクスは一歩近づいた。
「目的は?」
問いは短く、鋭い。だが、そこにあるのは理解を求める意志だった。
アラヤは笑わなかった。
「構造の否定よ。語られるたび、正義と悪が定義され、死者が並べ替えられる。
戦争は記録によって続いている。書かれる限り、火は消えない。
だから、記録を殺す。言葉の根を絶つ」
「なら、君は何になる」
マルクスは問う。
「火を消して、灰になった後、君はそこに何を植える?」
「何も」アラヤは即答した。
「焼け跡に種を蒔くのは、私たちじゃない。ただ、蒔ける場所だけを作る」
「それは、希望なのか」
「違う」アラヤの声は低く、静かに硬かった。
「ただの“終わり”よ。誰にも語られない終わり。それが唯一の救い」
マルクスの視線が鋭くなった。
「それでも、君は語られてしまう。誰かが“白うさぎ”の名で呼ぶ。
君の行動は、既に物語の一部になっている」
その言葉に、アラヤの指が止まった。
しばしの沈黙のあと、彼女は言った。
「なら……その物語ごと、そのシステムごと、壊してみせる」
二人の間に風が吹いたように、沈黙が裂けた。
マルクスはそれ以上言葉を続けず、アラヤもまた立ち上がらなかった。
ただ、夜の中にそれぞれの言葉が沈み、交差することなく分離していった。




