7:プロジェクト1968
雲は低く垂れ込め、空はまるで落ちるのをためらっているかのように、静まり返っていた。
ダブカの郊外、かつては物流拠点だった幹線道路が今や、砂塵と焦げたタイヤの残骸で埋め尽くされている。
そこに、銃を地面に置き、背を丸めて座る兵士たちがいた。
帝国軍・独立第88歩兵戦闘団。
軍律であれば、座り込みは反逆だった。
だが、彼らの目にあったのは恐怖ではなかった。ただ、疲労。言葉にすら変換されない絶望が、唇を乾かしていた。
「補給は?」誰かが尋ねた。
「来ねえよ。道路が封鎖されてる。市民に」
答えは、乾いた石ころを蹴るような声で返された。
IFF――敵味方識別装置は、すでに昨日から沈黙している。
無線、電信、データリンク。いずれもジャミングで一切機能しない。
前線に出ても、撃っていいのか、悪いのか分からない。
見慣れた軍服が味方か、変装か、それすら判別できない。
誰もが指を引き金に添えながら、撃てないまま立ち尽くす。
あるいは、間違って撃ち、取り返しのつかぬ沈黙を目の前に残す。
少尉はヘルメットを脱ぎ、空を見上げていた。
言葉にならない感情が、首元にまで溜まっている。
それでも何も言えない。命令が届かない。
本部は応答しない。
ラジオは「再送中」の表示を延々と繰り返す。
空の奥から、唸るような音が降ってきた。
回転翼ではない。砲撃でもない。
空を切り裂くような、ゆるやかな推進音。
兵士たちが顔を上げた。
雲間から現れたのは、黒い気嚢に銀の文字が浮かぶ飛行船。
通常の偵察機とは異なり、武装もマーキングもなかった。
代わりに、音が、降ってきた。
≪兵士よ、剣を置け。祖国はお前を見捨てた≫
拡声器の声は鋭く、しかしどこか親密で、鼓膜の裏側に直接ささやくようだった。
≪命令は来ない。なぜなら、命令する者がすでにいないのだ≫
≪お前の銃は、もう誰も守らない≫
兵士たちは立ち上がることすらできず、言葉の雨をただ浴びた。
声の主は姿を見せない。
だが誰かが、彼らの絶望を知っている。
誰かが、この無意味な従属を、知っていた。
一人の兵士が銃を地面に置いた。
もう一人が、それに倣う。
数分のうちに、八十名の部隊が、誰一人として銃を持たなくなった。
戦闘団団長代行は何も言わなかった。
命令がないからではない。
命令する意味が、もう、ないと知っていたからだ。
飛行船は、静かに高度を上げ、雲の裏へと戻っていった。
その機体には、名も紋章もなかった。
ただ黒く、ただ風に乗って、全戦線を渡っていく。
残された兵士たちは、誰も立ち上がらなかった。
誰も泣かなかった。
誰も、反論しなかった。
石壁の下、砕けた瓦礫に覆われた旧倉庫の一角。
そこはかつて帝国の駐屯地であり、今では連盟も王室連合も地図上から除外した“死角”だった。
鉄扉は錆びついていたが、内部の空気は生きていた。何かが、今さっきまで息をしていた気配。
ババヤガ=22は、崩れた木箱に手を置いた。残響。空間に染みついた“時間の歪み”が、彼女の内側にある分割化された未来の断片と接続した。
「……ここにいた」
ローブの裾がすれ、床の埃を撫でた。
「白うさぎだな」
ドゥッカが呟く。
彼の手は常に拳銃に添えられ、動きは寸分の狂いもなかった。彼の身体は武器より静かで、武器より速かった。
倉庫の奥には、残された毛布、冷めた茶器、天井から吊るされたままの無線用の小型アンテナ。
それらは、数分前まで“誰かがここで生きていた”という明白な証明だった。
「時間偏差。数秒、いや……三秒程度の遅延」
ババヤガは指を鳴らす。時間と空間の亀裂を感知するための信号が空気に放たれる。
「奴は、まだいるか?」
ドゥッカは床に膝をつき、斜線を測った。
「もう、いない。でも……ここにいた。この場所が歪んでる」
ドゥッカは銃を収め、ゆっくりと立ち上がった。
床に残された、アラヤの靴跡。追撃の価値を持たないほど、微細に時間を弄った逃走痕。
「指をかけた者ほど、影に呑まれる……」
彼の声は低く、誰にも聞かせる必要のない独り言だった。
ババヤガは床の痕跡を眺めながら、頷いた。
「記録されることを拒む者は、歴史にさえ残らない。でも、その“痕”だけは、確かにここにある」
彼女の指が、空間に印を刻んだ。
それは、記録にならない予兆。
追いかける者と、逃れる者の境界を滲ませる、ただの“時間の影”。
その夜、誰も知らぬままに、ひとつの追撃戦は不発に終わった。
だがそれは、終わりではなく、静かな始まりだった。
聖堂の屋根は落ちていた。石造りのアーチは崩れ、染色ガラスは風に砕かれ、礼拝台の木片が炭のように黒く焼け焦げていた。
だが、その中心にただ一冊、焼け残った書物があった。
マルクス・ファルンハイトは手袋を外し、指先でその背表紙をなぞった。
革の匂いがまだ残っていた。聖職者たちが儀式に用いた原典。
ページは煤に縁取られ、熱で歪んでいたが、ある箇所だけが不自然に新しかった。
インクが古びていない。書式が、他の箇所と微妙に違っていた。
「……1968」
その数字が、ページ下部にわずかに隠れるように印されていた。
年月日でもなければ、詩番号でもない。
だが、どこかで聞いた言葉。
彼の記憶に焼きついていたのは、最近何度か目にした諜報文の断片だった。
帝国防諜局の報告書には確かに書かれていた。
《Project 1968》──目的不明。指導者:モーリス。
「これは戦争じゃない。記録の消去だ」
マルクスは呟いた。
そのとき、後方から空気が揺れた。
反応するより早く、彼の腕を何かが捉え、地に叩きつけられる。
肩が鈍く軋んだ。
視界の端、少女の瞳が光っていた。重力を反転させるかのように、彼の体が一瞬だけ浮いた。
続けざまに、別の影が膝を叩き込んできた。呼吸が抜ける。
「……帝国のネズミ?、宗教施設で何してるの」
アラヤの声は冷たかった。
マルクスは咳き込みながらも、笑った。
「やはり“白うさぎ”か。こんなところでまた出会うとはな」
目を向ければ、ナユタがすでに彼の銃と通信端末を分解している。
「ロケットの発射主任じゃなかったの?」
アラヤは手に小型のナイフを回しながら言った。
「5年も経てば全て変わるさ。私もその才を活かす必要が出てきたというだけだ」
「何?アラヤの知り合い?」ナユタが割り込む。
「どうでもいいわ。生かして返す理由はない」
「まあ待て、取引だ」
マルクスは短く言った。
「……何を?」
「帝国の内情を教える。もう隠しても意味はない。お前たちのやってることが、何を目指してるかは想像できる。だが“どう壊れてるか”は、壊してる側には見えない」
アラヤはナイフの回転を止め、視線を落とした。
「それを、どうして教えるの?」
「俺が何を信じてるかは関係ない。だが、もうこの戦争には構造がない。敵も味方も、命令も、全部が幻のような輪郭になってる。
お前たちは記録を壊すが……世界は、忘れない。だから、書き残す価値がある」
「記録じゃなく、記憶を求めているみたいね」
アラヤは小さく笑った。その目に、皮肉と寂寥が混ざる。
「……なら、私たちと同じね」
「同じ?」
「私たちは“世界を売った者”よ。正義でも悪でもない。ただ、この世界の在り方、そして今の戦争の構図を壊すために立ってる」
「君たちは連盟の人間じゃないのか」
「連盟は抜けたわ。こっちのナユタは最初から連盟じゃない」
「なんと…」マルクスが嘆息する。
「国家を超越した者でなければ、この戦争は止められないわ」
アラヤの言葉にマルクスは短く息を吐いた。
「なら、見届けさせてもらう。君たちの作った“空白”が、どんな終わりを迎えるか」
アラヤは手を下ろし、ナイフを収めた。
ナユタが無言で通信端末の一部を返した。
彼らはマルクスを見送ることを選んだ。




