6:蠢く影たち
シェム・ヤアラの南端、かつて国家放送の中継を担った高地の鉄塔。
今では骨組みだけが残り、錆びた構造は月光の下で朽ちを晒していた。
冷え切った空気の中、ふたつの影が静かに踏み入った。
ひとりは巨体の男、顔面を無表情なマスクで覆い、無言で歩いた。
東方人民連盟・人民武力総局特殊作戦群アルファ部隊の隊長、ドゥッカ。命令と任務の化身。
その背後で、女が足音を立てずに動いた。黒いローブに無数の銀の針を縫い込み、顔の半分を白の面で覆っていた。
「残響がある」
女――陸軍総参謀部情報局子飼いの魔女、ババヤガ=22は、指先をかざし、鉄骨の断面に指を這わせた。
空気がわずかに鳴った。金属が過去を記憶しているかのように、冷たい震えを返す。
「ここで言葉が切り替えられた。祝福から――審判へ。声は同じ、魂が違う」
囁くように言い、彼女は目を閉じた。
ローブの内側に隠された“ログ”が蠢いた。
彼女の脳内には、予言ではなく、“予測化された痕跡”――分割保存された感覚情報の断片が、何百層にもわたって保存されていた。
ここで何が起きたか。誰が動いたか。どこへ向かったか。
因果の網の目を静かに手繰る。
「……声は女。だが、時間の軌跡が歪んでいる」
彼女は指を天にかざした。冷たい夜の風がその指先をすり抜ける。
「これは……加速と遅延を繰り返した足跡。あの子ね。白うさぎ」
ドゥッカは言葉を返さなかった。ただ首を僅かに傾け、戦闘体勢へと移行する。
彼にとっては、命令がすべて。敵が誰かなど問題ではなかった。
ババヤガはなおも歩き続けた。
金属板の欠片、焼け焦げたスピーカー端子、指紋の欠片――記録されることを拒んだ存在が、
この場に確かに居たと彼女は確信する。
「この混乱は、記録では終わらぬ」
ローブの中で針が微かに鳴る。月光に、かすかに鈍く光った。
「これは“忘却の計画”。記録を破壊することで、世界そのものの記憶を書き換えようとしている」
言葉は自分に対して呟くようだったが、空気はそれを受け止めた。
「だが……忘却の前に、ひとつだけ残すべきものがある。証拠。記録。それが私の役目」
塔の頂に残された鉄錆の板が、風に揺れた。
彼女はそこに指を置いた。わずかな熱。時間軸のずれ。
“白うさぎ”の名が、口にされずとも、空間に沈殿していた。
ドゥッカが重い口を開く。
「それで、目標はいまどこに?」
「この風は東へ向かう。地下ルートを通り、旧王家の街へ――」
彼女の呟きに、ドゥッカが歩を進める。
「行きましょう。次の痕跡へ。あの子は急いでる。でも、まだ手遅れじゃない」
「了解した」
塔の影が風に溶けてゆくなか、二つの影もまた、無言のまま闇に消えた。
朝の陽がまだ空の端を染めぬうちに、ナール市場の中心が燃えた。
爆発は突如として起こり、果物売りの屋台と、女たちの並ぶ井戸の列が一瞬にして崩れた。
破片は旋風のように広がり、空に吊された染物と、湿った羊皮紙の帳簿と、少年の赤いスカーフを一緒くたに巻き込んで灰と変えた。
人々は叫び、誰もが最初に“誰の仕業か”を尋ねた。
すでにその答えは用意されていた。
連盟兵の姿に偽装された“売った者たち”の録画映像。
逃げ惑う群衆の背後で、軍服姿の男たちが市場の奥に火を放つ――その“記録”が、
数分後には地下テレビ、衛星通信、手刷りの新聞、井戸端の噂話、全てを通じて拡散されていた。
「ナールを焼いたのは、連盟の兵だ」
「神の娘を汚したのは、王室連合の獣どもだ」
「聖域は、もう神に見放された」
言葉は炎より早く伝播し、理性より先に感情を燃やした。
シャムルでは、少女が泣き叫ぶ映像が街頭スクリーンに現れた。
映像は加工されていた。少女の顔は、死者の記録から切り出された。背景の兵士は影絵のように演出された合成だった。
だがそれでも、人々は立ち上がった。
疑う暇は与えられなかった。
ナール、ダブカ、シャムル。
砂峡地帯の三大都市において、蜂起は同時に始まった。
教会の鐘が鳴ったわけではない。だが銃声が、サイレンのように人々を呼び起こした。
武器はあった。
裏市場に流された連盟製の自動小銃。
王室連合の放棄した補給車両。
そして、アリフのような聖戦士の少年たちが抱えた、旧型のボルトアクション銃。
駐屯軍の基地は、早朝から続く群集に包囲され、補給線を遮断された戦車部隊は燃料切れで動かぬ鋼鉄の棺桶と化した。
街中の武器庫は襲撃され、建物からは黒煙が上がった。
兵士たちは発砲をためらい、指揮官たちは通信の途絶に唇を噛みしめていた。
命令が届かぬ以上、銃弾の行方を誰も保証できなかった。
正午、ダブカ南区。
古びたモスクの階段の上で、一人の聖職者が巻物を広げた。
髭は白く、目は血走っていた。
だがその声は、風よりも澄んでいた。
「これは神の試練である。
異教の軍靴が聖域を汚した時、汝らは剣を取るべし」
ファトワーが読み上げられた。
その文面を記したのは、モーリスだった。
だが誰もその名を知らなかった。
聖職者たちは一斉に説教壇に立ち、言葉を天から降ろすように群衆に告げた。
「神が命じる――立ち上がれ」
神が言ったのではなかった。
だが、そう信じた者たちが、立ち上がった。
広場の影に身を潜めながら、アラヤはそれを見ていた。
火はすでに撒かれていた。いま、それが燃え広がるだけ。
ナユタが隣に立ち、声を潜めた。
「……これ、革命?」
アラヤは首を横に振った。
「これは、記憶の塗り替え。誰が火をつけたか、誰も覚えていないまま、炎だけが事実になる」
そのとき遠くで爆発音が重なり、蜂起はもはや都市単位ではなく、全域へと波及し始めていた。
焔は、ただの戦争では終わらなかった。
これは、記録されぬ歴史を、誰かが書き換えようとした最初のページだった。




