5:狂乱した混沌は吼えたけり
その夜、シェム・ヤアラは光で満ちていた。
聖堂都市。三つの宗派が折り重なり、かつては神の名の下に千人の戦死者を出した聖地。
広場には数千の群衆が集まり、祭司の言葉を待っていた。
年に一度だけ響く“祝福の説教”。それが今夜、響くはずだった。
聖堂裏の控室では、別の劇が静かに幕を開けていた。
アラヤは窓の外から光を見た。照明の回転軸が、ちょうど聖堂中央を指している。
時間通りだった。ナユタは小さく頷き、次の瞬間、音もなく扉を開けた。
中には本物の祭司がひとり、祈祷前の黙想に沈んでいた。
柔らかい灯の下で閉じた瞼は、まるで神と語らっているかのように安らかだった。
アラヤは躊躇わなかった。
彼女の右手に収まった無音の神経針が一閃し、老いた祭司の首元に触れるだけで眠りが落ちた。
その呼吸は止まらず、ただ深く、長くなるだけだった。
「いってらっしゃい、おじいさま」
ナユタは囁くように言い、老祭司を椅子に凭れさせた。
顔に掛けられたフードがずれぬよう、丁寧に結び直す。
背後の扉が音もなく開き、一人の男が入ってきた。
黒衣。年齢不詳。無表情。
「世界を売った者たち」が用意した、「役者」だった。
彼の顔は、いかなる地方でも"祭司"と認識されるよう幾層にも整形されており、声帯には特殊な共鳴素子が埋め込まれていた。
「時間です」
「役者」は淡々と告げ、眠る本物の祭司とまったく同じ衣を身につけ、同じ手の振る舞いで祭壇へと向かった。
その歩き方、角度、杖の突き方すら完璧に模倣されていた。
ナユタはその姿を見送りながら、ほんの一瞬、眉を寄せた。
「神様の言葉を勝手にすり替えるなんて結構罰当たりじゃない?」
「でもね」とアラヤは答えた。「神が本当に喋ると思ってる人の前では、言葉そのものが現実になる」
「怖いのは……神様じゃなくて、信じる側…ってコト?」
「そんなところね…。神様の言葉なんて、所詮人間が自由に書き換えられるものかもね」
その頃、聖堂広場では沈黙が生まれていた。
「……神の言葉が汚されている」
マイクから放たれたその第一声に、群衆はざわめいた。
「この火は、天より与えられし試練である。魂を汚した者たちは、地に倒れるだろう」
言葉の節回しも、音律も、本来の祭司の声と酷似していた。
誰もその違いに気づかない。だが、言葉だけが、違っていた。
祝福ではない。警告だった。
赦しではない。審判だった。
広場にいた老女が涙を流し、少年が胸に手を当てた。
人々は信じた。神の声は、怒っていると。
そう信じるしかなかったのだ。何も繋がらない世界で。
市場では、光が逆流していた。
海賊局がハイジャックした電波が各所のスクリーンに流れ、
そこには教会が焼かれる映像が映っていた。
十字架に砲弾が直撃し、赤子を抱いた女が泣き叫ぶ。
だがその映像は、過去に撮られた別の戦場を繋ぎ合わせた捏造だった。
誰も気づかない。いや、気づこうとしなかった。
それを見ていた者たちの表情が変わる。
怒りでも、悲しみでもない。
その間にある、沈黙。
それが群れとなったとき、暴動は始まる。
フェイルの印刷工房では、印刷機が黒いインクを吐き続けていた。
「異教の軍靴」
そう題された紙面には、王室連合軍兵が聖地を汚す姿とされる影が並んでいた。
文章は煽情的で、事実無根だった。だが、誰も読まなかった。
ただ、紙を握ったまま、外へ出ていった。
火を灯しに。
アリフは紙を見なかった。
ただ、説教の声を聞き、市場の映像を見た。
そして兄のことを思い出した。あの夜、帝国軍の砲撃で兄が吹き飛ばされた瞬間。
砂に沈む血を、今も鮮明に思い出せる。
「神は見ていた。だから、立ち上がる」
彼はそう呟いた。
手にしていた銃は、アラヤに教えられた構えを取った。
だがそれは、効率的に死ぬための構えではなかった。
生きるために撃つ、そのための姿勢だった。
その日、世界はひとつの境界を超えた。
命令が沈黙し、情報が死に、感情だけが燃え始めた。
祭司の声なき声が、聖地を包み、
紙片が火を運び、
少年が引き金を絞った。
夜明けはまだ遠い。
だが、もう誰にも止められなかった。




