表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/88

5:狂乱した混沌は吼えたけり

その夜、シェム・ヤアラは光で満ちていた。

聖堂都市。三つの宗派が折り重なり、かつては神の名の下に千人の戦死者を出した聖地。

広場には数千の群衆が集まり、祭司の言葉を待っていた。

年に一度だけ響く“祝福の説教”。それが今夜、響くはずだった。


聖堂裏の控室では、別の劇が静かに幕を開けていた。


アラヤは窓の外から光を見た。照明の回転軸が、ちょうど聖堂中央を指している。

時間通りだった。ナユタは小さく頷き、次の瞬間、音もなく扉を開けた。


中には本物の祭司がひとり、祈祷前の黙想に沈んでいた。

柔らかい灯の下で閉じた瞼は、まるで神と語らっているかのように安らかだった。


アラヤは躊躇わなかった。

彼女の右手に収まった無音の神経針が一閃し、老いた祭司の首元に触れるだけで眠りが落ちた。

その呼吸は止まらず、ただ深く、長くなるだけだった。


「いってらっしゃい、おじいさま」

ナユタは囁くように言い、老祭司を椅子に凭れさせた。

顔に掛けられたフードがずれぬよう、丁寧に結び直す。


背後の扉が音もなく開き、一人の男が入ってきた。

黒衣。年齢不詳。無表情。

「世界を売った者たち」が用意した、「役者」だった。

彼の顔は、いかなる地方でも"祭司"と認識されるよう幾層にも整形されており、声帯には特殊な共鳴素子が埋め込まれていた。


「時間です」

「役者」は淡々と告げ、眠る本物の祭司とまったく同じ衣を身につけ、同じ手の振る舞いで祭壇へと向かった。

その歩き方、角度、杖の突き方すら完璧に模倣されていた。


ナユタはその姿を見送りながら、ほんの一瞬、眉を寄せた。

「神様の言葉を勝手にすり替えるなんて結構罰当たりじゃない?」

「でもね」とアラヤは答えた。「神が本当に喋ると思ってる人の前では、言葉そのものが現実になる」

「怖いのは……神様じゃなくて、信じる側…ってコト?」

「そんなところね…。神様の言葉なんて、所詮人間が自由に書き換えられるものかもね」



その頃、聖堂広場では沈黙が生まれていた。


「……神の言葉が汚されている」

マイクから放たれたその第一声に、群衆はざわめいた。

「この火は、天より与えられし試練である。魂を汚した者たちは、地に倒れるだろう」


言葉の節回しも、音律も、本来の祭司の声と酷似していた。

誰もその違いに気づかない。だが、言葉だけが、違っていた。

祝福ではない。警告だった。

赦しではない。審判だった。


広場にいた老女が涙を流し、少年が胸に手を当てた。

人々は信じた。神の声は、怒っていると。

そう信じるしかなかったのだ。何も繋がらない世界で。


 


市場では、光が逆流していた。

海賊局がハイジャックした電波が各所のスクリーンに流れ、

そこには教会が焼かれる映像が映っていた。

十字架に砲弾が直撃し、赤子を抱いた女が泣き叫ぶ。

だがその映像は、過去に撮られた別の戦場を繋ぎ合わせた捏造だった。

誰も気づかない。いや、気づこうとしなかった。


それを見ていた者たちの表情が変わる。

怒りでも、悲しみでもない。

その間にある、沈黙。

それが群れとなったとき、暴動は始まる。


 


フェイルの印刷工房では、印刷機が黒いインクを吐き続けていた。

「異教の軍靴」

そう題された紙面には、王室連合軍兵が聖地を汚す姿とされる影が並んでいた。

文章は煽情的で、事実無根だった。だが、誰も読まなかった。

ただ、紙を握ったまま、外へ出ていった。


火を灯しに。


 


アリフは紙を見なかった。

ただ、説教の声を聞き、市場の映像を見た。

そして兄のことを思い出した。あの夜、帝国軍の砲撃で兄が吹き飛ばされた瞬間。

砂に沈む血を、今も鮮明に思い出せる。


「神は見ていた。だから、立ち上がる」

彼はそう呟いた。

手にしていた銃は、アラヤに教えられた構えを取った。

だがそれは、効率的に死ぬための構えではなかった。

生きるために撃つ、そのための姿勢だった。


 


その日、世界はひとつの境界を超えた。

命令が沈黙し、情報が死に、感情だけが燃え始めた。


祭司の声なき声が、聖地を包み、

紙片が火を運び、

少年が引き金を絞った。


夜明けはまだ遠い。

だが、もう誰にも止められなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ