2:この木なんの木
それは、たった一輪の木だった。
砂峡地帯の灰褐色の砂と赤い岩層の境界、三つの国家が沈黙を保つかのように重ねた緩衝地帯の中心に、それはぽつねんと立っていた。ねじれた幹、ねばつくように濃い緑の葉。生えてはならぬ場所に生えた異物。監視塔の視界を遮るただそれだけで、その木は世界を炎に変えた。
最初に動いたのは帝国だった。監視塔の視界に死角を作ったという理由で、兵が派遣され、伐採を始めたと聞いた。
連盟は反発した。文化財に指定されていると主張した。
それが真実かどうかは、記録にもない。どちらの報告書にも「そうだった」とだけある。
監視塔にいた兵士たちは非武装だった。銃は携帯されず、互いに相手を見つめていた。
けれど、あの一発――誰が引き金を引いたのかは、今も不明だ。その音が戦端を開いた。
帝国側は手にしていた斧と鉈で連盟の警備兵に斬りかかった。
連盟側は数の力と素手で応戦し、喉元を狙い、膝裏を叩いた。
血が流れた。記録には「3名死亡、5名重傷」とある。
だが実際にはもっと多くの死体が出たのだろう。武器ではなく、怒りと恐怖でできた殺意が、人間の骨を砕いていったのだ。
連盟はこの事件に激怒した。スターリンは言った。「これは宣戦ではない。ただの報復だ」
砲兵部隊と爆撃機が派遣され、帝国の境界線を揺らそうとする。
だが命令が送られる前に、帝国は動いた。
越境空爆。戦車部隊の突入。歩兵は境界標を踏み越え、夜間に制空権を奪い取った。
連盟は応戦。現地の指揮官たちは中央の許可を待たず、部隊を“保護任務”の名目で出撃させた。
その途中、王室連合の監視塔が誤って誤爆された。連盟の現地部隊が独断で出撃させた戦闘ヘリによるものだった。
王室連合が動員を開始。外交ルートは崩壊した。
文書は残された。だがそれを読む者は誰もいなかった。
それからは早かった。まるで、用意された台本の上を滑るようだった。
それぞれの陣営は矢継ぎ早に部隊を増派する。砂峡地帯に集結する兵力は当初の思惑を超え、制御不能なまでに増大していた。
連盟は、帝国の前進拠点へ阻止爆撃を加えた。
帝国は報復に大規模な砲撃戦を仕掛けた。
王室連合は空母を進め、制空権の再奪取に動いた。
各陣営は、「防衛」しか語らず、それしか記録しないようにしていた。
だが私は知っている。攻撃だった。攻撃以外に、意志などなかった。
戦術だけが進化し、戦略は霧散した。
前線は線ではなく、泡のように無数に発生し、膨らみ、破裂していった。
誰が指揮しているのか分からない戦場で、兵士たちはただ「今ここにいる敵」を撃ち、進み、死んでいった。
そして、「特別軍事作戦」が始まった。
2週間で事態を終局させる、一撃で敵を崩せば有利な講和が引き出せる。そんな「特別軍事作戦」が軍部主導で提案され、スターリンはこれを了承したという。
膨大な数の兵力が砂峡地帯に集結した。だが、大兵力というのは隠し通すのはまず困難である。
従って、他の陣営もこれを座して見ることはなかった。
帝国は機甲師団や空挺部隊から縦深突入させ、正面から戦線を打ち破ろうとした。
連盟は弾道弾と電撃戦で後方を焼いた。
王室連合は昼夜問わない猛爆撃と防空網制圧。
三者ともその作戦をほぼ同時に始めた。
誰も計算していなかったのだ。敵の「思惑」が、まったく同じだったという単純な事実を。
結果、戦場は破綻した。
正面同士でぶつかるはずの部隊が側面を突き、友軍と誤認し、すれ違い、味方に砲撃を加えた。
ある部隊は補給線の喪失で餓死した。ある部隊は指令書の解読が遅れ、支援なく孤立した。
彼らの名前は記録にない。誰が何のために死んだか、誰も知らない。
2週間で事態を終局させる、そんな楽観的なシナリオはその2週間が終わる頃、誰の目にも破綻したのが明白だった。
精鋭部隊、先進的な兵器、莫大な物資。
それぞれの陣営は、お互いを屈服できないまま、高烈度の激戦でそれらを使い果たし、短期決戦シナリオのための決定打を喪失していた。
対峙する部隊は塹壕を掘り始め、戦線は固定化し始めた。戦車や戦闘機は戦場から失われ、歩兵と火砲だけの戦いになった。
熱核反応弾の使用が軍部から提案されたとき、スターリンは拒否した。
「これは戦争ではない。あくまで特別軍事作戦である」と。
その言葉の意味を、私は分かっていなかった。
今も分かっているとは言いがたい。
けれど、ただ一つ確かに分かることがある。
記録は戦争を止めない。記録は、理由にもならない。
今、5年が経った。
私はその間、モーリスの同志としてナユタと共に無数の戦場を徘徊した。
だが、記録の外側で私が見たもの。それは――たった一本の木が、炎になって世界を焼く様だった。
あの木の葉が揺れる様子を、私は見たことがない。
けれど、私は知っている。あの葉の影が、どれほど濃く、重く、この地を裂いたかを。
そして今も、その影の中で、人々は死に続けている。
勝ちもしない戦争を、終われもしないまま。
私は、その終わりに何があるのか、まだ知らない。
ただ、それを見届ける責任だけが、背中に染みついている。
東方人民連盟・首都中枢「大理石宮」地下会議室。
床は磨き抜かれた黒曜石で、天井は濁った乳白色の照明を淡く灯していた。そこに並ぶ長椅子と円卓は、国営木材工場で特注された樺材の一枚板でできていたが、誰もそれに目を留める者はいなかった。
七代目スターリンが席に着く。紅い目が、積まれたファイルの山を一瞥する。わずかに指先が動き、表紙を一枚だけはじいた。
そこに記されていたのは、血の色ではなく、数字だった。
内務委員長がゆっくりと立ち上がり、眼鏡を押し上げる。
「特別軍事作戦、第六十七週、状況報告に移ります」
会議室の空気は既に重く、冷たかった。
第二書記が前へ身を傾けると、眉が皺を寄せた。
「独立第十二機械化旅団、砂峡地帯東部丘陵線にて損耗率八十二パーセント。現在戦闘継続不能とされ、再配備には三ヶ月の猶予が必要と報告」
淡々と語られた言葉の中に、生存率という言葉は含まれていない。
外務大臣が静かに補足を重ねた。
「王室連合との非交戦交渉には応答なし。帝国も沈黙を保っています。他国は中立声明、非難声明、黙認。実質的な孤立状態にあります」
スターリンの顔はほとんど動かない。だが、紅い瞳だけがわずかに細くなった。
その視線がファイルを読み終える。
「数字だけでは語れないこともある」
それだけを告げ、椅子に深く沈んだ。
報告は終わった。儀式の時間は、それで終了した。
談話室。重厚な扉が音もなく閉じると、世界が変わった。
スターリンの姿はなく、ただ四人の男たちが沈黙の中にいた。
最初にタバコに火を点けたのは内務委員長だった。フィルター付きの細身の煙草に、金属のオイルライターが一瞬だけ青白い火を灯す。
続いて首相が両切りの国産煙草に火を点けた。燃える音はどこか湿っていた。
外務大臣は口にくわえた洋モクの細長さを確認するように眺め、火を点けずに口元で吸う。
第二書記は葉巻に火を付け、深く吸い込んだ煙を鼻で抜いた。
足元まで煙が沈み、天井へと這い上がる。四人の姿がぼやけて見える。
首相が咳き込んだ。声はまだ浅く、しかし言葉には重みがあった。
「……どうするんです? この“戦争”……」
眼鏡の奥で、内務委員長の目が揺れた。
「それは――“特別軍事作戦”です、同志首相。記録されます」
外務大臣が片眉を上げる。
「もう誰も“特別”とは思ってないがね。国境地帯で死んでいる若者には」
第二書記が静かに口を開く。
「だが“戦争”と認めた瞬間、我々の敗北が確定する。
国民も兵も、“作戦中”だからこそ耐えている。
現実がどうであれ、記録が語る物語こそが支配する」
首相は再びタバコを吸い、肺の奥で煙を溜め込んで吐いた。
「……兵站は詰まってる。列車は動かない。地方の倉庫は空。
補給は数週間で限界だ。食料も燃料も、どこも足りてない。
このままでは……遅かれ早かれ、暴動だ」
内務委員長が低く応じる。
「各都市の監視網は強化済みだが、限界が近い。
“英雄の母たち”からの照会は前月比三百十パーセント増。
抗議文が正式に届いている。署名付きで」
外務大臣が指先で煙草をもてあそびながら言った。
「停戦は、可能かもしれない。帝国も王室連合も、疲れている。
だが、それを言えば国が裂ける。
“負けた”と思う者たちは、必ず蜂起する。
その火は、どこにでも燃え移る」
第二書記が頷いた。
「アザン、ラァバ、ツパルタイ……
すべてが、火を待っているだけだ。
火種さえ与えれば、連鎖は一瞬だ」
その言葉の後、沈黙が落ちた。長い、深い沈黙。
その中で、首相が呟くように言った。
「……じゃあ、革命か? もう、いっそ」
誰も即答しない。タバコの煙だけが音もなく流れる。
しばらくして、内務委員長が静かに言葉を置いた。
「“革命”は、国家の自死です。
死ぬなら……殺される方がまだ、国家としてはましです」
誰も何も言わなかった。
葉巻が燃え尽きる音が聞こえた。洋モクが灰皿に潰される音も。
誰かの指が震えていた。誰かの眼が、窓の向こうを見ていた。
そして、第二書記がぽつりと漏らした。
「……彼が動かない限り、我々には何もできん」
その「彼」の名は、誰も口にしなかった。
言葉にするには、重すぎるからではない。
記録に残るからでもない。
ただ、ただ、恐れていた。
煙が天井へと届いた。
部屋の空気は重く、どこか沈み込んでいた。
タバコの灰と焦げた時間だけが、そこに積もっていった。




