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12:噓みたいな世界でただ一人、今日もあなたは絶対なの

砂峡地帯に入ったとき、空気の色が変わったように思えた。

国境は形式に過ぎない。だが、その形式ひとつで人の生死も、思想の価値も、魔術の許容範囲すらも変化する。

この地に来るまでの列車の揺れが、いまになって脳の奥で繰り返し揺れていた。


到着したのは中立都市マヒーラ。

アシリア自治領の中でも古くから交易と密通を許容してきた、複雑な階層構造の都市だった。

駅舎を出ると、ナユタが手を引いた。彼女の歩幅は速く、しかし決して乱れなかった。

砂に煙る路地、細い通りに軒を連ねる雑多な市場。

屋台の間を抜けて、シーシャと茶の香りに満たされた一角にたどり着く。


その店の奥に、急な階段があった。

そして階上の窓のない部屋に、一人の少女がいた。


金髪の幼い少女が、誰に対するわけでもなく囲碁を打っていた。

彼女の視線の先には、白と黒の石。

両者の陣地は入り乱れ、均衡は不明だった。


「ただいま〜、シビル」

ナユタの声に、少女が顔を上げた。


アラヤは、その顔を見て一瞬だけ足を止めた。

記憶のどこかに引っかかる――だが思い出せない。


「何をしてるの?」とアラヤが訊く。


「これはコウ」


「コウ?」


「うん。劫、無限反復」と少女は答える。

それだけを言って、再び石に指を伸ばす。


ナユタがアラヤの手を引き、別室へと進む。

古びた扉をくぐると、そこにはひとりの男がいた。

背を向けたまま、窓の外――まだ青さを残した黄昏の空を眺めている。


「待っていたよ」

静かな声。


「あなたがモーリス?」アラヤの問いに、男は頷き、こちらを振り向く。


目の奥に光が宿っていた。

それはかつて、アラヤが上官や仲間の中に見たことのある、“燃える者”の光だった。


「白うさぎはあなた?」


「そうだ」


モーリスは言った。

「だが、それはただのコードネームに過ぎない。

我々の本当の名は――世界を売った者たち(The Men Who Sold the World)」


「“我々”?」

「一応は、組織になっている。同じ意思を持ったスパイたちの、国を超えた連携体。

我々の目的は、記録国家という枷の外にある真実の観測と、それを可能にする秩序の打破だ」


「私に何をさせるつもりなの?」


モーリスは言葉を選ぶように一瞬間を置き、それから穏やかに笑った。

「君は既に気づいているはずだ。

これまでの記録も、命令も、記憶すらも――すべては他人の手で書き換えられてきたことに」


アラヤは沈黙する。

ディーパ、クシャナ、サティ――

そして、ラーダ。

彼女が観測し、記録してきたはずのものは、果たして本当に“自分の意志”だったのか。


モーリスは手を差し伸べる。

「もしも、君がまだこの世界に疑問を抱いているなら。

もしも、真実を“自分で記録したい”と思っているのなら――

君は、同志として歓迎される」


そのときだった。

都市全体に警報が鳴り響いた。

空気が震え、古いガラスが軋んだ。


外に視線を向けると、アシリアの空に弾道弾の軌道が描かれていた。

赤い尾を引く光が、宙を切り裂きながら降下する。

何発かは迎撃された。だが、二発が都市の建造物を直撃した。


地面が揺れ、電力が一瞬だけ途絶える。

建物がきしむ中、暗がりの中でモーリスが再びアラヤに手を伸ばす。


「君は、まだこの戦争を“見ているだけ”でいいのか?」


アラヤは彼の目を見た。

その奥には、恐れも、命令も、迷いもなかった。

ただ、選び取った意志だけがあった。


アラヤは拳銃の安全装置を解除し、それからその手を取った。


「決まっているわ。私はいつも、そうしてきた」


「いつも……か」

モーリスの笑みはどこか寂しげだったが、揺るがなかった。

「――ようこそ、アラヤ。世界を売った者たちへ」


階下へと下ると、バザールはすでに避難と混乱に満ちていた。

アラヤは建物の扉を押し開ける。

その向こうには、“夜なのに明るい空”があった。

空襲による対空砲火の光。


記録される前に始まる戦争。

記録に先んじて動く力と、選択の連鎖。


その背後に、ナユタが立っていた。

何も言わない。ただ静かに、アラヤの後を歩く。


彼女は、重力という名の重みを持って、この世界に引力をもたらしていた。


アラヤの目は、前を見ていた。

それは、ようやく“自分で選んだ未来”を見つめていた。


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