11:フラニーとゾーイ―
アラヤは列車の窓際に身を寄せ、燃えるような夕陽が地平線に沈むのを見つめていた。
列車は滑らかに走っていた。機械の体温のような揺れが座席を通じて伝わってくる。
広大な平野を抜け、岩山の峠を越え、いまは砂と礫ばかりの無機質な荒野が続いている。
国境は、そう遠くなかった。
アラヤの掌には、ナユタから渡されたパスポートがあった。
表紙には重厚な紋章。だが中身はまるで夢の中の他人の記録のようだった。
記された名はゾーイー・レオニ。
ナユタのものはフラニー・レオニ。
“姉妹”という体で行動する、欺瞞に満ちた旅路。
ドアがノックされた。
リズムと間隔。合図通り。
アラヤは迷わず銃に手を伸ばし、それから鍵を開ける。
「ただいま〜。食べる?これ」
ナユタが笑顔で林檎を差し出してきた。
その顔は、どこか懐かしい温度を孕んでいた。
「今はいらない」
「本当に?食べないとお腹空くよ?」
アラヤが応じないのを見て、ナユタは諦めたように反対側の席に腰を下ろす。
林檎の皮を剥くことなく、歯を立てて齧った。
「……もうすぐ国境だけど、多分それまでに追いかけてくるわ」
「誰が?」
「人民武力総局よ」
アラヤの声は低い。
「あそこは、抜けた者を絶対に許さない。……私がよく知ってる」
「厳しいんだねぇ」
ナユタが無邪気に言う。
「でもボクと一緒なら大丈夫だよ。ボクはね、絶対だから」
その“絶対”の響きは、子どもじみていて、なのにどこか、ひどく強かった。
アラヤは目を伏せた。
「だから、ここから出ないの?」
「そんなところね」
アラヤが返す。
「……ところで、食堂車やビュッフェは見てきた?」
「うん!めっちゃ綺麗だったよあそこ。朝ごはんはあそこで食べたいな」
「万能文化女中は何体いた?」
ナユタが少し考える。
「えっ……二体くらい? たぶん。キッチンにいるかも知れないけど……」
アラヤの声が硬くなる。
「スリーパーがいるわ」
「スリーパー?」
「人民武力総局は、あらかじめ各所に女中を使った潜伏戦力を置いてる。目立たないように、どこにでも」
「でもこの列車、国際列車でしょ?何かあったら外交問題になるんじゃない?」
「そんなの、いくらでも揉み消せる」
アラヤの声は静かだった。
「でも、国境を越えたらもう雑には動けない。だから――その前に仕掛けてくるはず。……用心して」
「はいはーい」
「はいは、一回」
「はーい」
ナユタは頷いて、枕を抱えながら横になる。
コンパートメントに、しばしの静寂が戻る。
遠くで走行音が一定のリズムを刻み、壁の振動が耳を震わせた。
「……なんか、お姉ちゃんみたいだね。アラヤ」
アラヤは答えなかった。
その沈黙を、ナユタは気に留めることもなく続けた。
「ねえ、アラヤ。こんなすごい偽造パスポート、誰が用意したと思う?」
アラヤは目を細めた。
林檎の香りと重なる記憶の靄の中で、問いを口にする。
「誰に雇われたの?」
ナユタは林檎を回しながら、軽く首を横に振った。
「雇われてないよ。助けたかっただけだもん」
「……じゃあ、切符や旅券は誰が?」
「モーリス。ボクは彼に頼んで、ただそれを使っただけ。準備は彼がした」
アラヤは眉をひそめた。
その名には、かすかに既視感がある。
だが記憶を掘り返そうとしても、何も浮かんでこない。
彼女の記憶には、モーリスという存在の痕跡はなかった。
「何故……私にそこまで?」
ナユタは天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「キミが覚えていないだけ。
でも、ボクにはキミを助けたい理由が――山ほどあるんだ」
列車の進行音が、鼓膜の奥で増幅する。
アラヤは記憶の中をもう一度探る。
だが、そこにナユタの名前も、モーリスの顔もなかった。
自分は、何を忘れたのか。
何を見て、何を見逃してきたのか。
列車は夜の地表を走り続ける。
窓の外では星が揺れていた。
アラヤは、手の中のパスポートを握りしめた。
外はすでに完全な夜だった。
広漠とした砂礫地帯を切り裂くように、国際列車は唸りを上げて進んでいた。
その動力の響きはコンパートメントの内壁を伝い、まるで巨大な心臓の鼓動のように規則正しく震えていた。
静かな空間に、不意にノック音が響いた。
アラヤとナユタは同時に起き上がる。
アラヤは即座に拳銃を手に取り、構える。
「誰?」
返ってきたのは、滑らかに均された合成音声だった。
「ルームサービスです」
その機械的な発声に、アラヤの目が細まる。
ナユタが無邪気に扉へ近づこうとした瞬間――
ドアが開け放たれ、黒光りする機械の影が突入してくる。
万能文化女中――民間給仕を装った戦闘特化型アンドロイド。
「うわっ!」ナユタが跳ね退く。
「伏せて!」アラヤが叫ぶ。
銃を構えるアラヤに、文化女中の金属の腕が鋭く伸び、肘から先で銃を叩き落とす。
もう一方の手に握られたナイフが閃く。
喉元へ――
その瞬間、アラヤの中で時間加速が発動する。
世界が遅くなる。
刃が空気を切る前に、アラヤは腕を返し、ナイフを弾き飛ばす。
「ナユタ!」
「OK!行くよ!」
ナユタの能力が放たれ、重力場が乱れる。
文化女中の身体がふわりと浮き、次の瞬間、天井へと叩きつけられる。
金属音と共に床が軋み、天井がひび割れた。
「いいわ、そのまま――窓から捨てて」
アラヤが窓を開けると、夜風が列車内を切り裂くように流れ込んだ。
ナユタが手を振り、浮かぶ文化女中の身体を外へ投げようとする。
だが、文化女中の手首からナノケーブルが射出され、アラヤの首に巻きついた。
「——ッッッ……!」
ケーブルが締まり、気道が押し潰される。
アラヤの視界が揺らぎ始める。
アラヤと文化女中はもみ合いながら窓から放り出される。
「アラヤ!」
ナユタが能力を解除し、窓辺に駆け寄る。
窓枠に片手でしがみつきながら、もう一方の手でケーブルを引き剥がそうとするアラヤ。
文化女中は車体に取り付き、ケーブルを巻き取りながら這い寄ってくる。
ケーブルを断ち切ろうと足元のナイフを拾い、渾身の力で切りかかるが――
ナノ素材の束はびくともしなかった。
列車の前方には、岩壁のように口を開けたトンネルが迫っている。
「アラヤ……!」
そして――列車がトンネルに突入した。
刹那の暗転。
その暗闇の中で、ナユタの魔力が弾けた。
「いけっ――!」
重力の位相が変化し、文化女中の身体が引き寄せられる。
壁面へ。
金属の体がトンネル壁に叩きつけられる音。
アラヤの喉を締めていたケーブルが、その衝撃で断ち切られ、彼女は咳き込みながら窓枠にぶら下がる。
半壊した文化女中は、それでもまだ動こうとしていた。
一部の関節が逆回転し、鉄の爪が車体を掴もうと伸びる。
アラヤは拳銃を拾い、照準を合わせた。
露出したコアユニットが、うっすらと赤く点滅している。
一発。
炸裂する銃声。
コアが粉砕され、文化女中は力を失い、列車の車輪に巻き込まれるようにして転落した。
アラヤはナユタに引き上げられ、コンパートメントへ戻る。
息を整え、まだ胸に残る締め付けの感覚を押し殺しながら、
アラヤは言った。
「助かったわ……ありがとう」
ナユタは満面の笑みを浮かべていた。
「どういたしましてだね。やっぱりボク、最強でしょ?」
アラヤは一拍置いて、短く答える。
「……そうね」
沈黙のあと、再びノック音。
アラヤが銃を構え、ゆっくりと扉へ歩み寄る。
返ってきたのは、穏やかな声だった。
「車掌です。いかがされました?」
アラヤは深く息を吸い、一言だけ返す。
「いいえ……何も」




