10:ナユタ・ザ・グラビティ
アパートの扉を開ける。
夜の底から浮かび上がるように、アラヤは帰ってきた。
身体の芯まで冷えきっていたが、それ以上に、魔術層の奥に漂う力の波が沈黙していた。
時間逆行能力は、静かに“冷却期間”へと入っていた。
今の彼女は、ただの魔女。記録の観測も、時間の歪みも、すべてを見送るしかないただの存在だった。
部屋に入り、しばらくの後。再び扉が開かれる音。
逆行アラヤが、時間を遡った先から、再びこの部屋に「入ってきた」。
いや、逆行時間のアラヤは、部屋から「出ていく」ところであった。
今度は“順行時間”の視点だった。
だからこそ、理解できる。
これは、かつて自分自身が体験した“あの瞬間”の、別の角度からの再演。
アラヤ(順行)は目の前の自分を見た。
まだ何も知らず、これからすべてに巻き込まれるアラヤ(逆行)。
それでも言葉は変わらなかった。
言葉が変われば、記録が変わる。記録が変われば、死の因果すら崩壊する。
それは許されない。
「……あの時、私が行ったように。もう一度、そこへ」
アラヤ(順行)は瞳で伝える。
「行くのよ」
言葉に感情はない。
だが、視線の奥には、深い哀切が潜んでいた。
何を言っても、もう遅いことを知っている目だった。
逆行アラヤがうなずく。
そして、紙を“差し出す”。
順行のアラヤが、その手から紙を受け取る。
一見すれば奇妙な動き。
だがこの部屋では、時間がねじれ、時は乱れていた。
視点を変えれば、この紙は今から渡されるはずのものであり、もう渡されていたはずのものだった。
紙には、こう記されていた:
「時間が交差する座標:万能文化女中・保管室
観測点時刻:03時41分」
順行アラヤは静かにコンロに火をつけた。
紙がふわりと炎に触れ、端から黒く焦げていく。
やがてそれは、静かな灰になった。
その灰も、逆行視点で見れば、いま再び“紙”となって復元されようとしていた。
アラヤ(逆行)が、後ろ向きで無言で再び部屋を出ていく。
先ほど自分が入ってきたその扉を、今度は出ていく。
順行の視点からそう見えるだけで、この逆行時間のアラヤは、サティの死の直後、人民武力総局から戻ってくるところであった。
順行アラヤは、黙ってその姿を見送る。
かつての自分が歩いた、血と記録と崩壊の道。
どんなに時間を巻き戻しても、
どんなに記録を操作しても、
“記録された死”だけは、けっして変えることができなかった。
ラーダの言葉が、今になって脳裏をよぎる。
「逃げろ、アラヤ。悪いことは言わない。
この“先に”起きることは、アラヤにとって最悪しかない……」
最悪とは、選べない死。変えられない因果。
繰り返す記録の中で、何一つ変わらないという結末そのものだった。
夜が明けた。
何の感情も混じらぬ、ただ機械のように明滅する都市の光が、窓辺に差し込む。
アラヤの手元には拳銃があり、その中に残された弾は八発。
予備はない。
能力も、時間逆行の代償によって封じられていた。
今の彼女には、力も援護も、命令もなかった。
部屋の中は、奇妙なほど整っていた。
昨夜、もう一人の自分と交差した痕跡すらない。
静寂と現実だけがあった。
外からは車の停車する音。それに何人かの、銃が揺れる音。
アラヤを処刑するために送り込まれたアルファ部隊がアパートを包囲しているのは明白だった。
アラヤは椅子に腰を下ろし、引き出しに手を伸ばす。
冷たい小瓶が指先に触れた。
自決用のアンプル。
死に至る最も穏やかな手段。
手に取ったまま、銃口を自らに向けた。
「……ここで終われば、誰もこれ以上、死なない」
それは逃避ではなかった。
今や、自決こそが論理的帰結であり、記録破綻を最小限にとどめる行動だった。
ディーパ、クシャナ、サティ。
その死を超えてまで自分が生き残る理由が、どこにあるというのか。
だがそのときだった。
建物が揺れた。
重力が乱れ、床が斜めに傾き、棚が横倒しに崩れた。
次の瞬間、窓ガラスが爆ぜ、風と共に――一体の死体が投げ込まれてきた。
特殊部隊員の戦闘服。
黒焦げの裂傷。
即死。
アラヤが反射的に銃を構えると、窓枠の向こうから少女が逆さまに現れた。
天井に足をつけ、まるでそこが地面であるかのように歩いてくる。
ツインテールに白いリボン。昨日の昼間、あのベンチで会った少女――ナユタ。
その顔は自分とよく似ていたが、笑みと無垢な熱量がどこか異質だった。
その瞳には、確かな光が灯っていた。
魔術行使中にだけ現れる、魔力の凝視反応。
「こっちはまだ終わってないよ、アラヤ」
ナユタは笑っていた。
まるで、遊びにでも来たかのような調子で。
アラヤは椅子から立ち上がり、銃を持ったまま言葉を絞る。
「何者……? どうしてあなたがここに」
「説明は後々! 今はこの大ピンチなんとかしないと!」
ナユタは天井から軽やかに飛び降り、足音もなく床に着地する。
次の瞬間、狙撃照準の赤い光線が、部屋中に差し込んだ。
アルファ部隊の照準装置。数発の狙撃が窓から放たれた。
アラヤは反射的にナユタの腕を引き、床に伏せる。
「包囲されてるわ。完全に」
「大丈夫!ボクの能力なら――」
ナユタは笑ったまま立ち上がり、ドアの方へ向かう。
ドアの外では、すでに突入待機した部隊が構えていた。
「行くよ、“おもりふる”」
その声と共に、ナユタの手が宙をなぞる。
空間が捻じれた。
一瞬、空気の密度が倍加し、壁と床の境界が波打った。
次の瞬間、ドアの外――廊下全体が崩れた。
局地重力崩落魔術。
構造材が沈み、兵士たちの叫び声が響いたが、それすらも空間圧に吸い込まれ消える。
ナユタは、アラヤを“重力歪曲泡”で包み込む。
観測阻害フィールド。
あらゆる視線とセンサーが、彼女たちを追えなくなる。
「行こう」
ナユタはアラヤの手を取り、浮遊するように跳躍する。
アパートの外壁を越え、都市の空を駆ける。
都市の重力は曲げられ、二人の身体は空を滑るように逃走する。
下ではサイレンが鳴り、ドローンが飛び、追跡の魔術照準が張り巡らされていた。
だが、ナユタの歪曲泡の中では、すべてが遠ざかっていた。
アラヤは言葉を飲み込んだまま、やがて問いかけた。
「……これから、どうするの?」
「駅に行くよ。アシリア自治領まで逃げるの。
砂峡地帯に行きたいんでしょ? ボクが手伝うよ」
「なぜ私のために、そこまで?」
ナユタの瞳がまっすぐに返ってくる。
「白うさぎは、役割だった。
だから――次はあなたの番なの」
アラヤは黙って、空を見た。
逃げているのではなかった。
これは、新たな“記録”の始まりだった。




