9:TURNSTILE
朝が沈んでいた。
街に差し込んでいた曙光は、まるでフィルムを逆回転させたように消え去り、
代わって、夜がもう一度訪れていた。
時間が倒錯した都市の中、アラヤは自身のアパートの部屋の前まで戻っていた。
扉を開ける。
不在のはずの空間に、明確な気配があった。
灯りは点いておらず、台所のコンロだけが静かに青い炎を灯していた。
その炎の前に、自分がいた。
順行時間のアラヤ。
もう一人の自分。
この時間、元来のアラヤはまだ総局内にいるはずだった。
では、部屋の中にいる“彼女”は、いったい何者か――
何処から来て、何のために、ここにいるのか。
コンロの上には燃え尽きる寸前の紙が一枚、ゆっくりと灰になろうとしていた。
だが、逆行する時の中で、その灰が収束し、形を取り戻す。
紙片が再構成されていく。
それを手に取ると、順行のアラヤが一言も発せず、指で差し出す。
静かな指示。沈黙の命令。
紙には、こう記されていた:
「時間が交差する座標:万能文化女中・保管室
観測点時刻:03時41分」
逆行のアラヤは、目の前の存在をまっすぐに見つめた。
鏡ではない。記録でも、幻影でもない。
これは自分自身——ただし、違う時間を通ったもう一人の自分。
順行アラヤは視線を上げ、視線を合わせる。
「行くのよ」
彼女の瞳がそう告げているように見えた。
「……あの時、私が行ったように。もう一度、そこへ」
その言葉に、選択肢は存在しなかった。
他でもない、自分自身の意思。
疑念も、理屈も、破綻もすべてを呑み込んでいるようだった。
逆行アラヤは、紙を手に取る。
そこには既に書かれていた。
“交差の座標”、そして“記録の歪みが始まる時刻”。
ラーダ。
保管室。
あの死。
――クシャナの最後の瞬間。
記憶を辿る。
数字の構文が脳裏に浮かぶ。
あのとき、あの瞬間、すべてが始まった。
逆行アラヤは、沈みゆく星々のもと、再び歩き始める。
街の明かりが逆に灯っていく中、彼女は闇へと進む。
人民武力総局。
クシャナの死の真実を解き明かすために。
保管室の扉が軋んだ。
魔術式の封鎖が解除されると同時に、冷たい空気が波のように押し寄せ、
その先から、銃声が放たれた。
世界が逆行しているにもかかわらず、引き金は確かに今ここで引かれた。
いや、違う――すでに引かれていたのだ。
アラヤの身体は、反射より速く動いていた。
腰に隠していた消音拳銃を抜く。
照準は、視覚が捉えるよりも早く、誰かの胸元を捉えていた。
発砲。
空気が弾け、魔力が歪み、重たい肉の感触が音として返ってくる。
撃たれたのは――クシャナだった。
人民武力総局の同じ捜査メンバーの1人。
クシャナは、撃たれてから立ち上がった。
銃弾が身体に収束し、血が逆流し、瞳に意識が戻っていく。
この空間において、死はすでに“起きていた”。
「……かたっだ君りはや」
言葉が逆さまに流れ出る。
それは耳ではなく、脳の中心に響いた。
――やはり君だったか。
アラヤは銃を構えたまま、口を開く。
「……私が、撃ったの?」
「ねるなうこばれあで力能の君……にか確」
確かに……君の能力であればこうなるね。
アラヤの喉が、僅かに震えた。
「違う……これは、罠よ。私じゃない」
クシャナの声が続く。
「?いかのな業仕の君もパーィデ」
ディーパも君の仕業なのかい?
アラヤは即答した。
その声に、一片の迷いもなかった。
「いいえ。私じゃない」
クシャナの口元がかすかに動く。
「だうよたっか遅がのく付気」
気付くのが遅かったようだ。
その一言に、時間のすべてが凝縮されていた。
彼女は既に“推理していた”。
アラヤが逆行の能力を持つこと、そしてここに現れることを。
そして――撃たれることを知っていた。
順行時間のクシャナは、未来から戻ってきたアラヤを、
“犯人である可能性”として処理し、銃を構えていた。
観測上、正しい対応だった。
だが、アラヤは“反射”で撃った。
スパイとして、反応するように訓練された魔女として。
弾は互いの判断を越えて、互いを殺した。
これは誤射でもなければ、暗殺でもなかった。
時は乱れて、避けようのなかった“交差”だった。
アラヤはその場に留まれなかった。
思考を呑み込むよりも先に、身体が出口へと動いた。
足音が逆流する廊下を走り抜ける。
扉が閉まる前に開き、声が消える前に響き渡る。
魔術層がまだ生成される前の段階に戻ろうとする直前、アラヤは窓へと向かった。
かつて割れたガラスは、すでに割れる前の形に戻りかけていた。
だが、まだ完全には閉じきっていない“裂け目”が残っていた。
アラヤは躊躇なく跳んだ。
夜の冷気が逆流し、魔術層の保護膜が逆光で煌めいた。
アラヤの身体は、総局の上階から街へと抜け、風の中に沈んでいった。




