8:時は乱れて
夜明けの気配が、首都の建築群の端に染み込むように差し込み始めていた。
人民武力総局の上層階——管理局棟の一角にある、サティの執務室。
アラヤが保管室を出て上階に上がり、その扉を押し開いた時、照明はついていなかった。
窓から入る淡い青白い光だけが、部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。
サティはそこにいた。
書類も端末も片づけられた机の前に、まっすぐ座っていた。
手には何も持っておらず、背筋を伸ばし、光と闇の境目に溶け込むように微動だにしない。
その表情は、奇妙なほど静かだった。
「……あなたが“白うさぎ”なの?」
アラヤの声は、感情を抑えすぎていた。
それゆえに、言葉の芯に刃が宿った。
「ディーパも……クシャナも、あなたが殺したの?」
サティはほんの少し視線を動かし、答えた。
「ディーパは、確かに私。けれど……クシャナは違う」
アラヤの眉がわずかに動く。
「どういう意味?」
「あなたが、一番よく知ってるはずよ」
その言葉に、アラヤの中の何かが不意に震えた。
クシャナの頭部を貫いた逆流する弾丸。
観測痕が“未来”ではなく“過去”に刻まれていたという、あの不可解な死。
「何故こんなことを……?」
アラヤの声は、揺れていた。
問いではなく、抗いにも似たつぶやきだった。
サティは答えた。
「記録者は、過去に囚われる。
観測者は、未来に触れることができない。
でも、時間を逆行する者だけは、そのどちらも欺ける」
アラヤは息を止める。
サティの声が、さらに低くなる。
「“人は選択し、奴隷は従うのみ”。
わたしは“白うさぎ”という役割を演じ続けてきた。
そして今日は、その役を、あなたに引き継がせるためにここにいる」
「……意味がわからない。妄想ね」
「全ては、“世界統制官”によって作られた虚構。
——いえ、あのスターリンと、それによって形作られた、この世界から、本当の姿を取り戻すためよ」
「そんな荒唐無稽な理由で、ディーパを殺したというの?」
「あなたも、いずれわかるわ。
わたしの言葉ではなく、あなた自身の記録が、あなたを追い詰める」
「私が?」
「――『The time is out of joint--O cursed spite,(時は乱れて、なんたる呪われた運命か)
That ever I was born to set it right!(この私がそれを正すために生まれたとは!)』」
「一体何を言って…」
そのときだった。
サティの唇が、数字を呟き始めた。
それは意味を持たぬ音列。
けれどアラヤの脳内には、それが明確な“命令”として突き刺さってきた。
視界がねじれる。
時計の針が逆回転するように、記憶と現在が重なり合い、
時が押し返される感覚に、アラヤは意識を攫われる。
気づけば、消音拳銃を構えていた。
サティに向けて。
引き金に、指がかかっていた。
だが、その最中に。
――人は選択し、奴隷は従うのみ。
その言葉が脳内で響く。スターリンの声ではない。
なぜか、それはナユタの声色に重なっていた。
笑っていた少女。白いリボン。自分に似た瞳。
なぜ今、あの顔が浮かぶ?
意識が引き戻される。
銃を下ろそうとしたその瞬間、アラヤの手が止まった。
サティの手が、既に銃を握っていた。
彼女の指が、アラヤの引き金を握る指に重ねられる。
その動作は、優しさにも似ていた。
「……“白うさぎ”を追って。
真実は、砂峡地帯にある」
その囁きが終わると同時に。
一発の銃声が、密室に響いた。
銃口が震え、煙が上がり、
サティの身体が崩れ落ちる。
彼女の表情には、微笑の痕が残っていた。
それは、死を迎える者の顔ではなく、
ようやく“役割”を終えた俳優の幕引きのようだった。
アラヤの手は、銃を握ったまま震えていた。
血の匂いと、焼けた金属の匂いが空気を満たしていく。
遠くで、夜が明け始めていた。
だが、そこに差し込んだ光は、ひどく鈍かった。
「やはり、君だったか」
マルガの声が、冷徹に響く。
会議室の空気が、明確に敵意を帯びていた。
アラヤの前に立つのは、かつて同じ記録を扱い、同じ観測任務にあたっていた三人――マルガ、カルパ、ソダシ。
銃声を聞き、駆け付けた彼らの手には拳銃があり、その銃口はすべて、アラヤの胸元を正確に捉えていた。
アラヤは言葉を出そうとしたが、その隙すら与えられなかった。
「武器を下ろしてください! 抵抗しない方がいいですよ!」
カルパの手が震えていた。だが、その引き金にかかる指だけは、躊躇を知らなかった。
違う。
「やっぱり……あんたは最低だったね」
ソダシが薄く笑う。
「タバコを吸わない魔女に、良い奴はいないって言ったでしょ?」
違う。
アラヤの胸の奥で、時間の構造が軋む。
世界が間違った情報で上書きされていく。
“観測されていない真実”が、嘘として記録されようとしていた。
「すぐにアルファ部隊も来る」
マルガは言う。
「間違っても、魔術で切り抜けようなんて考えるな」
違う。違う。違う。
アラヤの瞳が、音を立てずに濁った光を放つ。
その手が、ゆっくりと腰に忍ばせていた“それ”に触れる。
「――まだ、終わっていない」
言葉と同時に、アラヤの掌が閃光を描いた。
発煙弾。瞬間的に空気を掻き乱し、視界をすべて閉ざす。
煙が拡散する中、マルガが命令を叫ぶ。
だが、その命令もすぐに吸い込まれるように掻き消えていく。
そしてその中心で、アラヤの能力が発動する。
時間の位相が逆行する。
流れていた煙が“引き戻され”、粒子が逆巻く。
叫び声が飲み込まれ、銃口が収束し、発煙弾が未起動の形へと戻っていく。
アラヤが二つに分かれる。
ひとつは“ここ”に残るアラヤ。
もうひとつは、“さっき”へと戻るアラヤ。
逆行するアラヤが、巻き戻される世界の中で目を開く。
重力が逆に働き、足音が逆転して跳ね返る音が、鼓膜の裏から響く。
煙が、弾けるように収束していく。
それを尻目に、アラヤは会議室を抜け出す。
壁の時計が針を戻し、ガラスの割れた窓が元に戻る直前のわずかな“裂け目”から、身体を滑り込ませた。
総局の通路。
魔術層が“生成前の形”へ戻るその断面を、彼女は駆ける。
魔力の波が彼女の身体にまとわりつき、時間の逆行に抗うように脈動する。
それでも彼女は止まらない。
床に落ちた弾丸が、銃口に戻る。
書類が逆に舞い、廊下を逆行する局員たちの動きが影のように流れていく。
出口。
ガラスのひび割れが未だ残っていた窓の外縁に、彼女の身体が達する。
迷いなく跳躍。
空気を切り裂くように身を投げ出し、冷たい外気の中へ。
そして――
その足が着地したのは、首都郊外の無機質な団地が連なる地帯。
アラヤは駆ける。
すべてが逆転した世界の中で、彼女だけが目的を持っていた。
記録から消される前に。
記録が書き換えられる前に。
まだ“自分”が“自分であるうち”に。




