6:せつなさみだれうち
その夜、総局は不気味なほど静かだった。
建物の魔術層が深く沈黙し、普段なら意識すらしない空調音さえ耳に刺さる。時刻は二十一時三十分。定時巡回の時間。だが、その時間になっても――クシャナからの通信は届かなかった。
最初に異常に気づいたのはカルパだった。
クシャナの観測サイン――魔力波の定期送信――が、途絶えていた。
「……彼女の現在位置、ログにありません」
カルパの声は静かだったが、背後に漂う空気が変わる。
魔術通信層にも、予備回線にも反応はない。
そしてなにより異常なのは、“クシャナが存在していない”という記録が、過去三十分間、正規ログに上書きされていたことだった。
彼女は、あらゆる記録から姿を消していた。
マルガはすぐに内部緊急通報コードを起動する。
局内魔術網にアクセスし、即時命令を発信する。
《コード 12A:記録観測者失踪につき、関係者全員構内から離脱禁止。情報端末は即時ロックへ》
通知は、アラヤ、カルパ、ソダシ、マルガ自身の端末へと同時に届く。
四人は第333会議室に集合した。
室内は既に、幾層にも煙が積もっていた。
灰皿には無数の吸殻。紫煙が空気を曇らせ、魔術スクリーンすらぼやけて映る。
マルガは無言のままタブレット型端末に視線を落とし、通信ログの不整合を繰り返し確認していた。
カルパは背を丸めて、中央モニターに投影された“空白の時間”を見つめていた。
ソダシは言葉を吐かず、ただ煙草を吸い続けていた。
一本を消すごとに、新しい火が灯される。
その間隔はほとんど呼吸のようだった。
アラヤだけが、背筋を伸ばして座っていた。
机の上には手を置かず、ただ遠くを見るように、壁の無彩色を見据えていた。
空白三十分。
それは、記録国家において“実在しないこと”を意味する。
クシャナの魔術痕も観測ログも、すべてが沈黙していた。
彼女が最後にアクセスしたのは、第六層資料棟、万能文化女中の保管室だった。
だが今、その部屋の扉は施錠されており、内部へのアクセス記録すら消去されている。
アラヤはその事実を、声に出さずに心の中で繰り返した。
――存在しない。
――記録されていない。
――誰にも観測されなかった。
クシャナは、消えた。
ただ一つの事実を残して。
その夜、誰も帰宅しなかった。
煙は重く天井にとどまり、時計の針の進みだけが記録として残された。
事件はまだ、起きていないことになっていた。
だが、誰もが知っていた。この沈黙の中に、殺意が潜んでいることを。
午前零時三十一分。
総局中枢棟の静寂を切り裂いたのは、甲高く冷たい女声のアナウンスだった。
「――局内に侵入者。再通告します、局内に侵入者。
関係局員は各自の認証階層に従い、直ちに捜索対応へ移行せよ。
繰り返します――局内に、侵入者」
その言葉が意味するものは、誰よりもアラヤが理解していた。
クシャナの消失。通信の空白。そしてこの通告。
すべては、まだ何も観測されていない死を指していた。
廊下に響く足音。
夜間戦闘用の漆黒の戦闘服に身を包んだ部隊が、魔力を抑制する標準装備の盾と消音式カービン銃を携えて、散開していく。
その先頭には、アルファ部隊の隊長――ドゥッカがいた。
彼の目には光がなかった。感情の代わりにあるのは、指揮者としての完結した思考だけだった。
「コードA-909、現着。アルファ部隊、探索開始」
その一言で、機械的な侵入者捜索が始まった。
だが、同時にアラヤたち四人も、別の使命のもとに動いていた。
マルガは構造解析デバイスを、カルパは魔術波長検知端末を、ソダシは密偵用の指向探知術を使い、それぞれの道を選ぶ。
アラヤは無言のまま、ひとつの場所を選んでいた。
万能文化女中――ラーダの保管室。
それは、記録上もっとも観測者が近づいてはならない空間のひとつだった。
封印された思考補助型魔導機構。
その深層には、かつてアラヤと共にあったものが、静かに眠っていた。
扉の前に立った瞬間、微かな臭気が鼻を突いた。
焦げた金属。血のにおい。硝煙の残滓。
警戒魔術はすでに無効化されていた。
魔術層の波紋が乱れており、誰かが既に内部へ侵入した痕跡があった。
扉が開く。
その瞬間、空気が一気に凍りついたように感じられた。
魔術照明が点灯し、奥の床面を照らし出す。
そこに、クシャナの遺体があった。
後頭部から額へと貫通した弾痕。
即死。
崩れるように横たわった姿は、ラーダの保管容器のすぐ傍にあった。
体からは魔力が完全に失われており、魂の記録も回収不可能。
肉体の死ではなく、“記録されることのない死”が、そこにあった。
マルガが後ろから静かに入ってくる。
目の前の光景を一瞥し、目を閉じる。
「……制式の、消音拳銃。距離一メートル以内。狙撃…ではないようだ」
ソダシが口を閉じたまま灰を床に落とし、短く言う。
「……つまり、これは宣告ね。
この死は、わたしたち全員に向けた“通告”だってこと」
カルパは崩れ落ちそうな声で、ただ一言呟いた。
「観測者が……観測されないまま、殺された……」
アラヤは何も言わなかった。
クシャナの閉じたまぶたを見つめながら、脳裏に数字が浮かび上がる。
頭の奥で、また“誰か”が囁く。
ラーダの収容ケースの封印ランプが、かすかに明滅する。




