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5:ナンバー・ガール

人民食堂の壁面には、手入れの行き届かない観葉植物と、常時低音で流れる古いラジオ。

その音は、誰かが調整を怠ったかのように微妙に歪み、時折、数列のような音の断片を混ぜていた。


アラヤは、手元の皿に残った茹で青菜を見つめながら、頭の中で繰り返される数字を追っていた。

「21・4・21・9・40・15・7・80」

静かな旋律のように、脳の深部でそれは巻き戻り、また再生される。

あの研究所。シャクティの声。

あの“数字”には、構文ではなく詩のような節回しがある。

切断された間。呼吸と発話の“揺れ”。

記録としてではなく、記憶として埋め込む構造。


——ディーパの最終ログも、同じ間合いだった。


「……ラヤ、アラヤ?」


ソダシの声が割り込んできた。

気づけばアラヤはフォークを握ったまま動かしていなかった。


「最近、大丈夫?」


アラヤは視線をラジオからソダシへ向ける。

そして、ごく短く答えた。


「大丈夫よ」


ソダシは皮肉を混ぜず、ただ淡々と問う。


「万能文化女中がいないと、自分が曖昧になるタイプなの? あなた」


一瞬だけ、アラヤは答えを迷った。


「……そうかもしれない」


ソダシは笑うでもなく、口を拭った。


「わかるわー。自分が曖昧になる。そういうの、スパイにはよくある話よ。

情報ばかり扱ってると、“自分の中身”ってやつがなくなってくるの。

そうやって壊れていった人間、何人も見てきた」


「あなた、覚えているの?」


アラヤの問いに、ソダシは肩をすくめた。


「覚えてるんじゃないわ。記録してるだけ。

あんたも日記くらい付けなさい。自己観測の初歩よ」


「服務規定違反」


「そのくらい、“スパイの極意”ってやつよ。敵を欺くには、まず味方から。

記録国家で生き残るには、二重思考くらい当然でしょ?」


アラヤは答えなかった。

ただ、ソダシの車の中で見たもの——

タバコ、消臭剤、コンドームの残骸。それらを思い出していた。

そして、決して自分はそうはならないと、静かに否定した。


向こうのテーブルで、サティが食事を終えようとしていた。

誰とも話さず、顔も上げず。

だが、耳だけはラジオに向いているように見えた。

流れる音のリズムに、彼女の指先がほのかに動いていた。


「……あのラジオ、数列が混ざってる気がする。嫌な感じ」

ソダシの声が低くなる。


「もしかしたら、通信手段かも」


「でも、あの周波数は今日は使用されてないはずよ。

ディーパが死んでから、三三号室のチャンネルはすべて統制下。

私の男友達が通信班にいてさ、最近その話ばっかりなのよ。愚痴が止まらない」


「男友達?」


アラヤが静かに訊ねる。


ソダシはパンの耳をちぎりながら笑う。


「あんた、いないの? 休みとかどうしてるのよ」


「家で寝てる」


「だーめ。少しは遊びなさいよ、自分ってものを形成しておかないと、

情報に呑まれて終わるわよ? 本当に」


アラヤはわずかに目を伏せた。

自分には必要ない。あの車の中のように、

自堕落と快楽を同義にした何かにはなりたくなかった。


その時、サティが立ち上がった。

皿の上には手つかずのパンと、半分残ったスープ。

彼女は会計も済ませず、ラジオの音を背に食堂を出ていく。


「……上がるみたいね。私たちも行きましょ」


ソダシが言う。

アラヤは黙って立ち上がった。


通りに出たサティの後ろ姿を確認しながら、

ソダシは道端に止まっていた車の窓をノックする。


「交代よ」


車から出てきたのはマルガとカルパ。

二人は無言でサティの背後に付く。

アラヤとソダシは、そのまま空いた車の中へと滑り込んだ。


「中々、尻尾を出さないわね」

アラヤは助手席に座りながら呟く。


「我慢比べよ、これは」

ソダシが再びタバコに火をつける。

赤く灯る火が、車内の窓に反射した。


「それより、あんたこの後暇?」


「いいえ」


即答するアラヤに、ソダシは肩をすくめる。


「そう……残念。じゃあクシャナでも誘おうかしら」


エンジンがかかる。

車が動き出す。

空はまだ、記録されるには曖昧すぎる光のままだった。



夜の帳が街の輪郭を溶かそうとしていた。アラヤは一人、舗装の不完全な歩道を歩く。

靴底を伝う振動が薄く、空気の粒子がやけに重たい。思考の底から、またあの数列がゆっくりと浮かび上がってくる。

「21・4・21・9・40・15・7・80」

数字の一つひとつが、記憶と神経を蝕むように波打っていた。


視界が滲む。音が遠ざかる。

通り過ぎる人の顔も、照明の色も、ひとつのパターンに押し潰されていく。


「……ねぇ……ねぇ、大丈夫?」


その声は、破れた空気の隙間から滑り込んできた。


アラヤが顔を上げると、目の前には少女がいた。

長いツインテール。結ばれた白いリボンが、まるでウサギの耳のように揺れていた。

顔立ちはどこか見覚えがあり、ふとした瞬間には自分自身の幼い姿と重なって見えた。


「何でもないわ……ありがとう」


言葉にしてみると、思いのほか声がかすれていた。


「顔やばいよ!少し休んだ方がいいってば」


少女は自然にアラヤの手を取り、歩道脇の木製ベンチに座らせる。

その動きは、ごく日常的な善意によって構成されていたが、どこか過剰な熱量を帯びていた。


水筒が差し出される。

中身は常温の水だったが、喉を通した瞬間、胸にわだかまっていた数字の波形が一瞬だけ消えた。


「……大丈夫。落ち着いたわ」


少女がその隣に腰を下ろす。


「お姉さん?……で合ってるかな。もしかして魔女?」


アラヤは少し考えてから、うなずいた。


「そんなところね」


「すごい!もしかして軍とか、お役人さんとか? そういうのめっちゃ憧れてるの!」


少女の目が素直に輝いていた。そのまっすぐさに、アラヤは少し戸惑いを覚える。


「……ボクは、ナユタ。この近くの学校に通ってる。制服でわかるでしょ」


「アラヤよ」


名前を告げたその瞬間、ナユタの表情がわずかに動いたように見えた。

だが、それが演技だったのか、本物の驚きだったのか、判別できなかった。


「すごいなぁ〜。ボクとそんなに見た目変わらないのに」


「魔女の外見は、年齢とは関係ないのよ」


「でもさ、世界中飛び回ってるんでしょ? ボクもいつか外国に行ってみたいなあ」


無垢な願望。

その圧力に、アラヤは少し押されながら言葉を選ぶ。


「……まあ、ね。帰れないことの方が多いから、いい仕事だとは思ってないわ」


「そうなの?」


「命令でどこへでも行く。嫌なことも、理不尽も。全部、それで片づけられる」


「でも、それって……なんだか、スパイ映画みたいで楽しそうじゃん。冒険って感じ!」


「命の危険があるなら、それは冒険じゃない」


「じゃあ、なんでそんな仕事を?」


問いが突き刺さった。


アラヤはすぐには答えず、街灯の輪郭を見つめた。


「……この国で生き残るには、それしかなかった。ただ、それだけの話よ」


ナユタは“ふーん”と短く相槌を打ち、遠くを見た。

その姿は年相応の少女のようでもあり、何か別の意識を内に秘めたもののようでもあった。


「お姉さん、この近くに住んでるの?」


「今はね」


「また話したいな。じゃあ、またここのベンチで。……じゃーね!」


ナユタは立ち上がり、手を大きく振った。

その背中が夜の中へ消えるまで、アラヤはずっと黙って見送っていた。


笑顔が、やけに鮮やかに残った。

見たことのない風景のようでいて、どこか既視感があった。


そのとき、黒い車が突然目の前で停まった。

窓が下がり、運転席から見覚えのある声。


「乗って。戻るわよ」


ソダシだった。


「……遊びに行ったんじゃなかったの?」


「マルガから緊急連絡よ。あんたも呼ばれてる」


アラヤは何も言わず、ドアを開けて乗り込んだ。


エンジンが咆哮するように始動し、タイヤが夜の路面を滑り始めた。

ナユタの白いリボンが、遠くでまだ風に揺れている気がした。

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