4:アラヤと2人の魔女
灰色に濁った空が、街の境界線をぼやかしていた。
薄い霧雨と排気が混ざり合い、地平の向こうを曖昧に溶かしている。人民武力総局・通信層裏手の立体駐車場、その三階に停まる車の中、空気はもう一種類の煙で満たされていた。
ソダシの指先から吐き出された紫煙が、車内の天井にへばりついている。助手席に座ったアラヤは、窓ガラス越しの濁った街並みを黙って見つめていた。
ダッシュボードに取り付けられた魔術式監視装置が、対象建物の出入り口を補足する。
だが、今この空間に存在するのは、もっと濃密なもの——気配のような、匂いのようなものだった。
ソダシは足を組み替えながら、また一本タバコに火をつけた。
灰皿には折れ曲がった吸殻が幾重にも重なっており、タールの焦げた匂いを妙に甘い芳香剤の香りが押し殺していた。
アラヤは何気なく足元に目を落とした。
そこには潰れたビニール片。使用済みのコンドームのそれが転がっている。
声に出すことなく、アラヤは足を少しずらし、視線を外した。
「……あんた、吸わないの?」
ソダシが窓の隙間から煙を逃がしながら尋ねた。
視線は正面を向いたまま、だが口調はどこか含みを持っていた。
「私は吸わない」
アラヤは視線を戻さずに答える。
まるでその一言だけが、室内のすべての気配から自分を切り離す結界のようだった。
ソダシは煙を吐き出すたびに、笑いを押し殺すように目を細めた。
「……そう。珍しいわね。魔女なのにタバコ吸わないなんて。
あたしたちって、だいたい火を持って生きてる生き物なのに」
「そんなにタバコが大事?」
「大事よ。生きる糧だもん。それにあたし、タバコ吸わない魔女は信用しないことにしてる」
煙草の先が赤く光り、指の間で細く揺れた。
車の中にあるのは、二人の呼吸音と小型装置のノイズ、そして沈黙に滲む観測対象の所在だった。
アラヤは口を閉じたまま、左耳のレシーバーに魔力を流す。
監視装置が、対象の微弱な魔力痕反応を検出する。
建物の自動扉が音もなく開く。
「……出てきた。追うわ」
それだけを告げて、アラヤはドアを開けた。
その身のこなしには無駄がなかった。
誰かに仕えるでも、誰かを疑うでもない。
ただ、記録される前に“観測しに行く”者の動きだった。
ソダシは笑みを浮かべ、まだ半分残ったタバコを灰皿に押し付けた。
「さあて、じゃあ狩りの時間ね」
車のドアが閉まる。
濁った街に、沈黙のままふたりの魔女が姿を消した。
第333会議室には、魔術式の換気機構が存在していたはずだった。
だが、今その天井に漂う灰色の幕は、機械仕掛けの処理を明らかに上回っていた。ソダシが潰した煙草の煙がまだ揺らめいており、カルパの前の灰皿には白濁した吸殻が折り重なっていた。マルガは無言のまま、一度も火を点けていない煙草を指先で転がしているだけだった。
空中に再構成されたホロスライドには、局員たちの魔力痕と勤務記録が淡く浮かんでいた。
そのうち、アラヤとソダシが調査を担当した三人の記録がひとつずつ無効化されていく。
カーシ、サーヴァカ――両名の履歴には目立った齟齬も、干渉痕も見られなかった。
「このふたりは、シロでいいだろう」
マルガがスライドを指示に従って流しながら言った。
その声は煙と同じ色をしていた。
「カーシの魔力痕は端末記録と一致、サーヴァカの記録操作もなし。どちらも、事件の発生時間帯には通信層外にいたことが観測記録で保証されている」
残った一名。その名を口にする者はいなかった。
だが、その人物の記録ログが空中に浮かぶことで、部屋全体に気配が変わった。
「……“二重署名”、です」
カルパが指を動かし、魔術コード層を拡張する。
記録の表層に浮かぶのは、サティの過去任務記録。
だがその一部には存在しないはずの署名が埋め込まれていた。
「副指令者“ナガルジュナ”……実在記録は存在していません。
これは、おそらく“偽装構文”。署名そのものが、魔術的に偽造された記録幻影です」
「つまり、サティの任務記録には“観測されていない者”の名前が存在していた、ということか」
マルガの声が落ち着いていた分、言葉の重みが増した。
「それだけじゃないみたい」
ソダシがそう言いながら、もう一本のスライドを展開する。
そこには撮影記録が並んでいた。監視とは思えないほど穏やかな日常の切片。
だが、その光景には小さな異常があった。
サティが公園のベンチに座っている。
手には開かれた本。だが背後から接近する男がひとり、帽子を深く被って近づき、
彼女の肩越しに声をかけている。唇の動きから見て、会話はごく短く、
すぐにその男は立ち去っている。
次の映像では、サティが歩きながら小さな紙片を落とし、
それを後ろから来た男が自然に拾い上げ、ポケットに滑り込ませていた。
「このタイミングは偶然じゃない」
ソダシの声にはいつになく真剣味があった。
「顔は写ってないけど、これだけ連続して非接触のやりとりを行ってるなら、
間違いなく何らかの情報伝達を行っているわ。
サティが“何者かと繋がってる”のは、ほぼ確定ね」
「情報流出の可能性が極めて高い。だが、今の段階ではまだ“犯人”とは断定できない」
マルガはホロスライドを閉じ、手元の端末を静かに伏せた。
「このままスパイ容疑で拘束すれば、真の“記録改竄者”が地下へ潜る恐れがある。
サティが実行犯であっても、まだその証拠は薄い。
我々が追うのは“記録を操作できる者”だ。慎重に進める必要がある」
アラヤが静かに口を開いた。
「……銃の方は?」
「分析中」
クシャナが答える。声は乾いていた。
「殺害に使われた拳銃のグリップ痕が出ればいいけど、魔力痕の流動が不規則でね。
皮膚そのものが検出できれば一発なんだけど、
“手袋越しに魔力遮断”されてた可能性がある。詰めは甘くないわ」
「だとしても、いまこの時点での最も濃厚な容疑者は――サティだ」
マルガの言葉に誰も異論を唱えなかった。
「我々4人で、サティの尾行と追跡を行う。
クシャナ、あなたは引き続き“魔術痕解析”と“時間波層の位相再演”を頼む」
「了解」
クシャナは短く答え、端末を開いた。
誰の顔にも安堵の色はなかった。
この段階で、誰ひとりが“真犯人ではない”という保証がなかったからだ。
“観測されていない犯罪”は、記録国家にとって最も恐れるべき事象だった。




