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2:ある日のアラヤさん

コスモラーダは沈黙していた。

エントリープールの中、魔術的緩衝液に浮かぶその構造体は、もはや兵器にも女中型アンドロイドにも見えなかった。ただの箱、あるいは記録装置の残骸。


アラヤは、それをエントリープールを一望する検査室の窓から眺める。最後にラーダの顔をひと目見たあと、黙って背を向けた。


壁に掛けられた電話のベルが鳴る。部屋にはアラヤ1人。宛先は明確だった。


アラヤが受話器を取る。


「もしもし」


「今は研究所か?アラヤ」


静かな、威厳を感じる声が受話器から響く。人民武力総局局長の魔女、アトリの声だ。


「はい」


「万能文化女中の方はどうだ?」


「まだ修繕に時間がかかるようです。それに…」


アラヤが先ほどのシャクティの光景を反芻し、言い淀む。


「それに…どうした?」


「いえ、なんでもありません」


「明日は総局で少し話がある。しばらく国外に出ることはないから、万能文化女中の出番もないだろう」


「…了解しました」


「どうした、何か不服があるようだな」


「ラーダ…いえ、万能文化女中が随伴しない場合、服務上の記憶領域に若干の問題が」


「気にするな。必要なことがあればまた伝える。他にあるか?」


「いえ、ありません」


「よろしい。今日は結構。休んでいいぞ」


「失礼します」


アラヤは受話器を元に戻す。


ラーダはエントリープールから次の工程に移動したのか、検査室からは見えなくなっていた。


アラヤは静かにエレベーターまで歩き出した。ラーダがいない今、覚束ない足取りになりつつあった。



総局第十七課の昇降機が上昇を始める。機械は無音ではない。機械的な沈黙ほど喧しいものはないとアラヤは思う。たったそれだけのことが、世界の歯車全体を狂わせているような気がしていた。



総局ビルから出ると、首都の空は濁っていた。鉛のような雲。色彩が死んだ街に、音も熱もない。アラヤはトラムに乗る。前衛技術で無人制御されるそれは、道を滑るように走る。乗客は誰もいない。いや、記録上は「いなかった」のかもしれない。


アラヤは隣にいるはずのラーダに話しかけようとしたが、誰もいないことに気付き。首を降った。


孤独。


スパイでは当然の状態が、任務中ではない自分に重くのしかかるのを感じる。




やがて車窓の外に、灰色の団地群が現れる。総局職員用の標準居住棟。均等に並ぶコンクリートの塊は、まるで記憶を遮断するために設計されたかのようだった。アラヤの目に、それらは倉庫にも墓標にも映る。


トラムが停車し、降車口が開く。足を地に下ろすと、静電気のような都市の微細な息吹が脚に触れた。


中央広場には小さな人民食堂がある。平屋建て、カウンターに皿が並んでいた。蒸しパン。チキン。炒めた青菜。

選択はいつも習慣による。彼女は盆にそれらを並べ、不愛想な老婆がいつも立っている精算カウンターを通過する。


食堂を出ようとしたとき、声がかかった。


「久しぶり、ね」


女の声。どこか覚えがあるような、ないような。振り向くと、長い髪と赤茶の制服。名札には“サティ”と記されていた。


「……?」


アラヤは何も返せなかった。視線を逸らす。記憶が、跳ねるように遠ざかる。なぜか思い出せない。ラーダがいない。随伴していない。補完されない。


「ごめんなさい、今、急いでるの」


それだけを残して、アラヤは団地の一棟へと足を向けた。


部屋の扉を開けると、空気が重かった。帰宅者を歓迎する気配はない。照明を灯せば、埃が粒子となって視界に浮かぶ。出張続きの生活。ベッドも机も、使用された記録のない家具たち。彼女が“存在しなかった日々”の残滓が、そこにあった。


上着を脱ぎ、シャワーを浴びる。熱い水が首筋を叩いても、冷たいものは内側から抜けていかなかった。指が震えている。何もしていないのに。


シャクティの声が、空気のように脳内に流れる。


「あなたは、書き込まれた記録なのよ」


「条件付け」


「観測結果は、与えられたもの」


「人は選択し、奴隷は従うのみ」


「白うさぎを追え。全ての真実のために、あなたは選ばれたのよ」



数字が浮かぶ。あの不可解な乱数が。魔術詩にも似た、意味を持たないはずの呪文。だがアラヤには、意味があるように感じられた。


彼女はタオルで濡れた髪を乱暴に拭き、乱れた息を整えるように深く吐いた。


食卓に盆を置き、湯気の消えた蒸しパンに目を落とす。箸は進まない。


ラジオをつける。だが何も変わらなかった。ノイズの中に数字が混じる気がする。放送の隙間に誰かが呼びかけている気がする。


シャクティではない。あれは彼女自身だ。

記憶の底で、誰かがまだ生きている。


「私が見ている世界は、本当に私のもの……?」


独り言に答える者はいない。

そして答えは記録されることなく、埃とともに沈んでいった。



地下中枢層——記録の血管が無数に交差するその領域は、人民武力総局の心臓であり、忘却を統制する中枢でもあった。

アラヤは指定された通路を歩く。壁面の記録水晶が通行者の身分と記憶を自動照合し、必要以上の情報を差し出すことはなかった。だが足元の反応は正確だった。彼女の名、彼女の過去、彼女の観測。すべてが脚の下に、淡く浮かんでは消える。


局長執務室は静かだった。


黒曜石を思わせる長机の奥、アトリがいた。

外見は30代のような妙齢の魔女。

端正なえんじ色の軍服。

年齢も、出自も、戦歴も、表向きの記録には記されていない。だが彼女の声には、記録の正当性が宿っていた。支配とは、記憶の形式を定めることだと知る者の声だった。


「久しぶりだな」


そう言って顔を上げたアトリの表情は、記録の頁をめくるように無感情で、整然としていた。


アラヤは軽く頭を下げ、そして答えた。


「ええ、でも今日は——ラーダがおりませんので」


一瞬、机の上の記録装置が微かに光を放つ。応答ログが生成されたのだろう。アトリは目を細め、わずかに口角を上げる。


「そうか。今日は記憶してないんだったな。……まあ、いい」


皮肉だったが、そこに嘲笑はなかった。ただ、観測された事実を告げる者の口ぶりだった。アトリの言葉はいつもそうだ。重さを持たず、代わりに秩序を持つ。


空気が静まり、数秒の沈黙が流れた。アラヤが言葉を探すよりも先に、アトリは本題に入る。


「通信課の魔女、ディーパが死亡した」


言葉は事務的だったが、その一音一音が正確すぎて、まるで判決のようだった。


アラヤは表情を動かさなかった。だが意識の奥に、一瞬のざわめきが広がった。ディーパ。任務の交点にいた者。観測調整と送信権限を持つ“記録の中継者”。


「死亡日時は、君が研究所に滞在していた三日前。第33号室内で発見された」


「死因は?」


アトリは机上の装置を指先で触れる。波形のような魔術図式が空中に現れ、静かに回転する。


「背後から頭部に一発。弾丸は32口径。弾頭部分は緑色に塗装されていた。このタイプの弾丸は世界でもこの人民武力総局の職員用に製造された特務拳銃でしか使われていない。つまり、我が人民武力総局内の誰かの犯行、ということだ」


アラヤの中で、何かが沈んだ。

数字。シャクティの声。逆再生された記憶。

「21・4・21・9・40・15・7・80」

まるで世界が、同じ詩を異なる旋律で歌っているかのようだった。


「監視記録は?」


「部分的に消去されていた」


「第33号室に肖像画は?」


肖像画――つまり、7代目スターリンの肖像画は、専ら東方人民連盟の大半の部屋や公共の空間に飾られている。


そして、それらは魔術的な一種の記録装置として機能しており、国民監視の道具の一つとして用いられている。当然、このような場合の捜査では真っ先に確認するものだ。


「いや、第33号室に肖像画は置いていない。あれは国民を監視する道具であって、監視する側の我々の場にはそぐわないからな。それに肖像画の管轄は内務省だ。我々のセクションじゃない」


アトリが肩をすくめる。


「では…いったい誰が?」


「お前にも関係がある。……そう判断して、私は君を呼んだ」


「わたしが?」


アラヤは視線を上げる。アトリの目は揺れなかった。


「そう。君は観測者だ。記録の発火点となるべき存在。ゆえに、“記録されなかったもの”に最も敏感であるはずだ。君にしか、見えない死がある」


執務室にはまた、沈黙が落ちた。

だがその沈黙は、情報を失って生まれたものではなかった。

むしろ、情報が濃密に凝縮され、言葉を許さない密度に達した沈黙だった。


アラヤは小さく息を吸い、そしてただ一語、返した。


「承知しました」


その声もまた、記録された。

だが、それが真実かどうかは、まだ記されていなかった。

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