1:万能文化女中は無期限休職です
夜の人民武力総局は静かだった。
第33号室——通信課に割り当てられた暗号処理室の扉には、常夜灯すらない。照明は記録光のみ。何も語らず、ただ事実だけを照らすための、無機的な白。
その中に、ひとりの魔女が座っていた。
ディーパ。記録魔術に最も適性を持つ女。観測者ではなく、翻訳者でもなく、“中継者”。情報を、汚れないまま次の器に流すために生まれた者。
彼女の視線は目の前の端末から逸れず、指先は流れるように鍵盤を叩いていた。
数字が現れ、消え、また浮かび上がる。
330、41、789、66。意味のない並びに見えて、世界を変える音。これは“乱数”であると同時に、諜報員の起動シグナル。
ディーパは知っていた。
本来、この数字を知覚することさえ禁じられている。だが、通信の末端にある彼女は、知ってしまった。
「それを聞いてしまったのね」
声が背後から届いた。
ディーパは振り返らない。音の主を知っていたからだ。
「命令は、受け取っていません」
「そう。だから、来たのよ」
背後の声はゆっくりと歩みよる。足音は記録されない。だが、魔術層を帯びた部屋の空気がわずかに揺れ、そこに“存在”の波動が現れる。
「この部屋で、あなたの役割は終わる」
「わたしは……記録します。起きることを。起きたことを」
「記録される前に終われば、それは起きなかったと同義よ」
ディーパは、手元の鍵盤を止める。暗号送信装置に最終信号を打つ手前で、指を浮かせたまま動かなくなる。
「白うさぎ。あなたが、白うさぎ」
背後の声は静かに笑う。その声色には悲しみも、怒りもなかった。
ただ、記録されるべき運命を肯定する者の表情があった。
「わたしは“白うさぎ”じゃないわ。
私は、“白うさぎの声”なのよ」
ディーパの頭の中に、数字がまた響く。
誰の口からでもなく、空気の中に、記憶の隙間に、構文の外側に——
21・4・21・9・40・15・7・80
指が勝手に動く。瞳孔が開き、感覚神経に火花が走る。
体が命令される。脳が従う。けれど彼女は、最後の一点で反抗する。
残された一秒の意志で、キーストロークを変更する。
暗号鍵を、逆転させる。
送信完了。
記録ログに封印される形で、“誰にも読めない真実”が残された。
そのとき、背後から静かに拳銃を抜く音。人民武力総局制式の小型消音拳銃。発射音すら記録に残らない、完璧な道具。
ディーパの頭が動く前に、弾は発射される。
一発。眉間。即死。記録すら追いつかない早さ。
背後の人物はディーパの体をそっと椅子に戻すと、手元にあったマグカップの下に、小さなシールを置いた。
白いうさぎ。口のない、無表情な獣のシルエット。
「……人は選択し、奴隷は従うのみ。彼女は…どちらでしょうね」
背後の人物はそのまま、光のない廊下に消えた。
後に残ったのは、記録されることのなかった死と、意味を持たないはずの数字列。
世界は何も気づかず、通常業務を再開した。
ただひとつ、誰にも読めないファイルだけが、暗号封印の奥底で待っていた。
人民武力総局・第十七課——「任務用研究開発部門」は、もはや研究所ではなく、記憶と記録の歪みによって膨張した異常な迷宮だった。金属と結晶で構成された無窓の回廊が、時の概念さえ拒絶しているように思えた。
アラヤは静かに歩いていた。
足元の床は記録石で組まれ、すべての歩みを刻むように反応を示している。
部屋の奥、円形の観測室。その中心で、ひとりの魔女が振り返った。
シャクティ——年齢不詳、黒衣に身を包み、髪は濃紺の糸のように背中まで垂れていた。目元にかかる偏光レンズは、彼女の視線を秘匿し、思考を誤読させるためのものだとアラヤは知っていた。
「ようこそ。お帰りなさい、アラヤ」
その声は澄んでいて、どこか無人放送のような無感情をまとっていた。
シャクティの机には、白いうさぎのイラストが描かれたマグカップが置かれている。古びた陶器。場の雰囲気から浮いた奇妙な違和感。
「コスモラーダの修復に来ました。状態は?」
コスモラーダ――アラヤの随伴機であり、彼女の記録統合の中心でもある万能文化女中。
そのラーダは、今は機能を止めて静かな眠りについている。
この奇妙な研究所にアラヤが足を運んだ理由であった。
「ええ。端末損傷、深層意思決定ユニットの断裂、記録伝達層の遅延……そして、なにより——」
彼女はマグカップを手に取り、ゆっくりと口元に運ぶ。湯気はなかった。ただ、その手つきがまるで何かを再生するようだった。
「内部コマンドに“余計なもの”が、いくつか残っていました。たとえば——」
シャクティは、何気ない調子で数字を唱えた。
「21・4・21…9、40…15・7・80——」
世界が反転した。
アラヤの視界に、光がなくなった。時間がずれたように耳鳴りが走り、立っていた床の角度が歪んでいく。呼吸が、意識から遠のいていく。数字が、脳の深部を震わせる。
誰かが、背後から彼女を覗いていた。
脳が動く前に、身体が震えていた。脚が勝手に動き、手が拳銃の形をとる。かつて訓練されたとおりの反応が、自律的に再生されていた。
——違う、私じゃない。
——これは、誰かの命令だ。
視界を光が覆う。沢山の数列が瞬いては消え、浮かんでは消えてゆく。
とめどない記憶が逆流していく。かつて見た書類、誰かの記憶?
そんな中、
視界の先に光と人影。
「人は選択し、奴隷は従うのみ。君は、どちらかな」
人影の紅い眼が光る。その相貌は、純白の少年。
——誰だ。
——これは、私の記憶なのか?
「底に手が届いたようね」
シャクティの声が、記憶の底から泡のように上がってきた。
「記録は正しかった。けれど、“記憶されたもの”が正しいとは限らない。あなたの中にあるもの、それがどこから来たのか、気づいた?」
アラヤは震える指をこじ開けるようにして、腕を胸元へと引き戻した。意識が、ようやく彼女自身の所有に戻る。
「これは——」
「条件付け。あなたは“書き込まれた記録”なの。何を見ても、何を記録しても、それは“与えられた観測結果”にすぎない」
マグカップをそっと机に戻す音が、まるで閉じたファイルのように重たく響いた。
「誰かが私にそれを?」
「人民武力総局のスパイであれば、大半の人間がそうね。でも多くは、自分の植え付けられた記憶には気付かないし、気付けない。任務中は万能文化女中に記憶を制御されているし、任務後の不要な記憶は消去される」
「ラーダが…私に?」
「任務遂行のための必要な装置ということよ。多くのスパイは、条件付けによって動き、そして二重思考をもって作戦を執行できる」
「二重思考?」
「スパイというのは常に疑念をもって行動しなければならない。けれどそれは国家に対する疑念の意すらも生み出してしまう。そこで、記憶を記録から切り離し、随伴機体に携行させることで、相反する思考の矛盾を両立できるようにした、これが事実よ」
「…なぜ、私にそんな話をするの?」
シャクティの偏光レンズの奥の瞳が揺らぐ。
「白うさぎを追え。全ての真実のために、あなたは選ばれたのよ」
アラヤは、言葉を出そうとした。だが口の中で呑まれた。
シャクティはそれ以上何も言わず、片手を軽く振った。
その動きと同時に、部屋の照明が消え、壁が回転し、床の記録石が無地に戻った。彼女の姿は、記録ごと消えた。
室内には、ただマグカップだけが残っていた。白いうさぎの瞳が、まるで観測者のように静かにアラヤを見ていた。
その日から、彼女は自分を信じることができなくなった。




