12:雨をみたかい?晴れた日に降る雨を…
午後3時20分。
ダロンの空は血のように焼け落ち、建物の縁に引火した煙が、鈍く唸る風の中で蛇のようにうごめいていた。
人々の叫びと銃声、誰かの名前を呼ぶ泣き声が重なり、街の境界を塗りつぶしていた。
都市機能はとうに崩壊していた。
王室連合のヘリコプターが次々と屋上から離陸し、空へ逃れる一握りの者たちを乗せていった。
だが、それは選ばれた者たち――
ヘリに乗り切れない、見捨てられる者たちは、焦げた車とバリケードの陰で叫びながら崩れ落ちていった。
その喧騒の中に、ひときわ無音のように存在する場所があった。
それは建設途中で放棄された“統合行政ビル”。
鉄骨とコンクリートだけが並ぶ、未完成の高層建築。
そこに、微弱ながら追跡魔符の光が、静かに点滅していた。
「ここで間違いない」
アラヤは銃を構えたまま、口元だけで言った。
ビルの入口には、すでに人の気配はなかった。
騒乱の中心から外れた、誰も近づかない死角だった。
「行くか」
ヴァンが無造作に銃のマガジンを叩き込み、前に出た。
血の匂いと火薬の臭いに混じって、潮風のような静電気が肌を舐めた。
三人は廃ビルの内部へ突入した。
階段は金属がむき出しで、足音がやけに響いた。
20階近い構造体を、彼らは駆け上がっていく。
下からは炎が這い寄り、上からは風が鳴いていた。
そして、18階。
階段を曲がったその瞬間――銃声が跳ねた。
閃光。
鉄柱が弾かれ、コンクリートが弾け飛ぶ。
「伏せろ!」
アラヤが叫び、次の瞬間、ヴァンが崩れるように倒れた。
一発。
正確に腹部を貫通していた。
ヴァンの体から、鮮血が噴き出し、金属の床に赤い音を立てて落ちた。
その刹那、濃い灰色の煙が通路に立ち込める。
発煙弾。
視界の向こうで、誰かがシビルの腕を引き、上階へと引きずりあげていく影が見えた。
「くそ……っ!」
アラヤはすぐさま反撃の銃弾を撃ち込み、ラーダがヴァンを抱きかかえて物陰に引き込んだ。
「出血がひどい……!」
「止血処置を!」
アラヤは拳銃を構え、周囲を警戒する。
だが、敵の姿は煙の向こうに溶けていた。
ヴァンは目を開け、血の混じった息を吐いた。
「……言っただろ。俺の契約は……どこでも終わらねぇって……」
その声は、既に芯を失いつつあった。
アラヤはラーダの横にしゃがみこみ、額に滲んだ汗を拭う。
「ラーダ、救命措置は……」
「ここはあたしに任せて」
ラーダは迷いなく答えた。
「早く、シビルを追って」
アラヤは、最後にヴァンの手を握った。
その手は、もうほとんど力を返してこなかった。
ヴァンは視線だけで訴えるように言った。
「……シビルを……置いてくなよ……」
アラヤは答えなかった。
その代わり、彼の手を強く握りしめた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
言葉はひとつだけ。
「わかったわ。必ず、連れて戻る」
夕陽が街を焼いていた。
崩れかけた鉄骨の上にある、むき出しのコンクリートの屋上――
その中央に立つ男の肩越し、少女の金髪が赤い空を反射していた。
まるで溶けかけた光が、人の形を成しているかのようだった。
モーリスは手を伸ばしていた。
だがその手はシビルを掴んではおらず、ただ彼女の存在の輪郭をなぞっているだけだった。
「来たか」
言葉は夕焼けに紛れて静かに響いた。
「やはり、“魔女”は自分の記録だけは捨てきれないらしい」
アラヤは言葉を返さなかった。
ただ、構えた銃口をぶれさせることなく、歩を進めた。
「シビルを渡しなさい」
声に感情はなかった。氷のように均衡していた。
モーリスは振り向かなかった。
「君たちは、“純粋記憶装置”に何を見てる?
希望か?救済か?それとも未来?
……だが、この子は、ただの幼女ではない。
世界の“外側”そのものだ」
「それでも、彼女は“今ここにいる”のよ」
その言葉に、モーリスはゆっくりと振り返った。
背後の夕焼けが、彼の顔の輪郭を滲ませていた。
影と光の交錯が、表情を読ませなかった。
「君の意志は、本当に“国家”にあるのか?」
モーリスの言葉が、コンクリートの床に滑るように届く。
「君のスパイ活動は、誰のためにある?
君が守ってきた“記録”が、もし全て演出だったとしたら?
君が信じてきた正義が、“世界の終わり”を加速させるための舞台だったとしたら?」
アラヤの手が微かに震えた。
指の間にある引き金が、一瞬だけ遠くなった。
「世界統制官のシナリオは、もう長くない」
モーリスはまるで、夕日と対話するかのように言った。
「世界統制官……?こんな時に何を言ってるの?」
「真実が知りたいなら、私の元に来るべきだ」
声は低く、そして異様に穏やかだった。
誘うというより、すでに決まっている運命を述べているかのように。
アラヤは一度目を閉じた。
その奥で、銃声と涙と火の匂いが交錯する。
そのすべてが、ヴァンの声と重なった。
「……お断りするわ」
銃声が空を裂いた。
弾丸が、モーリスの肩を正確に貫こうとした――
だが、空気が波打ち、銃弾は突如として宙で止まり、熱に溶けるように消えた。
モーリスは動かなかった。
ただ、シビルの頭に静かに手を当てると、短い言葉を呟いた。
「……また、会うよ。記録の外側で」
風が吹いた。
空気の縫い目が開かれ、夕日の向こうにゆらめく“何か”が現れた。
彼とシビルの姿は、そこへ吸い込まれるようにして消えた。
音もなく、香りも残さず。
魔術的干渉。座標転移。
この次元のどこにも、追跡の糸はもう存在しなかった。
アラヤは屋上の端に立ち、崩れかけた街を見下ろした。
市庁舎には、革命戦線の赤い旗が風に揺れていた。
道路の上では、人々が爆竹を投げ合い、火を焚き、叫び、肩を抱き合っていた。
祝福にも似た悲鳴と銃声の交錯。
ダロンは“解放”された。
だがその勝利は、どこか薄く、音を立てずに空へ昇っていく煙のようだった。
背後で足音がした。
ラーダだった。
額に煤をつけ、息を整えながら近づいてきた。
「ヴァンはどうしたの?」
「見送ってきたよ」
その声に、感情はなかった。
感情を入れれば崩れてしまうことを知っていた。
アラヤは頷いた。
風が髪を揺らし、火の粉が遠くで舞った。
「ねえ……勝ったの? この戦争って」
ラーダが問う。アラヤはその言葉に首を傾げた。
「誰が?」
その問いは、アラヤの胸に深く沈んだ。
勝者。敗者。英雄。犠牲者。すべてが曖昧だった。
ただ、モーリスの言葉が、耳の奥に刺さったままだった。
──君のスパイ活動は、何のためだ?
──世界統制官のシナリオは、長くない。
アラヤは目を閉じた。
その暗闇の中に、焼け落ちた街と、ヴァンの笑みと、シビルの無表情が浮かんでは消えた。
握った拳が、何も握れないことだけを知っていた。
夕刻、海から風が吹いている。
別荘のプールには波一つなく、透明な水が鏡のように空を映していた。
室内、スターリンはバルコニー越しにその光景を眺めながら、受話器を耳に当てていた。
少年の顔をした統治者。その瞳には、老いた記憶の光があった。
「……そうだ。ナイ・ペレ将軍、君の“革命”は人民の記憶に新しい一行を刻んだ。
解放の旗は、予定通り風に翻っている。
我々は君の成し遂げた“秩序的混沌”を、正当に評価しよう」
受話器の向こうで、ナイ・ペレが何を言ったかはわからない。
ただ、スターリンは無表情に頷いた。
「ええ、もちろん。
“正常化”のための調整は、我々が担当する。
それでは……人民に栄光を」
彼は静かに受話器を戻した。
一拍置いて、スターリンは深く椅子に腰を沈める。
部屋には誰もいない。
横のサイドテーブルには、何冊かの本が無造作に置かれていた。
そのうちの1冊――『ナイン・ストーリーズ』と書かれている――に、彼の細い指が触れたが、ページは開かれない。
風がレースのカーテンを揺らす。
スターリンの視線は窓の向こう、どこか遠くを見ていた。
「……そこまで“知った”のなら……
“代わり”を用意しなければいけないだろう。ナイ・ペレも、アラヤも」
外では、遠くの海の方角に、空を割るような雷が走っていた。
そして静かに立ち上がる。
背丈130cmほどの体に、不気味なほどの“権力”の影が宿っていた。




