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38/88

12:雨をみたかい?晴れた日に降る雨を…

午後3時20分。

ダロンの空は血のように焼け落ち、建物の縁に引火した煙が、鈍く唸る風の中で蛇のようにうごめいていた。

人々の叫びと銃声、誰かの名前を呼ぶ泣き声が重なり、街の境界を塗りつぶしていた。


都市機能はとうに崩壊していた。

王室連合のヘリコプターが次々と屋上から離陸し、空へ逃れる一握りの者たちを乗せていった。

だが、それは選ばれた者たち――

ヘリに乗り切れない、見捨てられる者たちは、焦げた車とバリケードの陰で叫びながら崩れ落ちていった。


その喧騒の中に、ひときわ無音のように存在する場所があった。


それは建設途中で放棄された“統合行政ビル”。

鉄骨とコンクリートだけが並ぶ、未完成の高層建築。

そこに、微弱ながら追跡魔符の光が、静かに点滅していた。


「ここで間違いない」

アラヤは銃を構えたまま、口元だけで言った。

ビルの入口には、すでに人の気配はなかった。

騒乱の中心から外れた、誰も近づかない死角だった。


「行くか」

ヴァンが無造作に銃のマガジンを叩き込み、前に出た。

血の匂いと火薬の臭いに混じって、潮風のような静電気が肌を舐めた。


三人は廃ビルの内部へ突入した。

階段は金属がむき出しで、足音がやけに響いた。

20階近い構造体を、彼らは駆け上がっていく。

下からは炎が這い寄り、上からは風が鳴いていた。


そして、18階。

階段を曲がったその瞬間――銃声が跳ねた。


閃光。

鉄柱が弾かれ、コンクリートが弾け飛ぶ。


「伏せろ!」

アラヤが叫び、次の瞬間、ヴァンが崩れるように倒れた。


一発。

正確に腹部を貫通していた。

ヴァンの体から、鮮血が噴き出し、金属の床に赤い音を立てて落ちた。


その刹那、濃い灰色の煙が通路に立ち込める。

発煙弾。

視界の向こうで、誰かがシビルの腕を引き、上階へと引きずりあげていく影が見えた。


「くそ……っ!」

アラヤはすぐさま反撃の銃弾を撃ち込み、ラーダがヴァンを抱きかかえて物陰に引き込んだ。


「出血がひどい……!」


「止血処置を!」

アラヤは拳銃を構え、周囲を警戒する。

だが、敵の姿は煙の向こうに溶けていた。


ヴァンは目を開け、血の混じった息を吐いた。

「……言っただろ。俺の契約は……どこでも終わらねぇって……」


その声は、既に芯を失いつつあった。


アラヤはラーダの横にしゃがみこみ、額に滲んだ汗を拭う。

「ラーダ、救命措置は……」


「ここはあたしに任せて」

ラーダは迷いなく答えた。

「早く、シビルを追って」


アラヤは、最後にヴァンの手を握った。

その手は、もうほとんど力を返してこなかった。


ヴァンは視線だけで訴えるように言った。

「……シビルを……置いてくなよ……」


アラヤは答えなかった。

その代わり、彼の手を強く握りしめた。

そして、ゆっくりと立ち上がる。


言葉はひとつだけ。

「わかったわ。必ず、連れて戻る」





夕陽が街を焼いていた。

崩れかけた鉄骨の上にある、むき出しのコンクリートの屋上――

その中央に立つ男の肩越し、少女の金髪が赤い空を反射していた。

まるで溶けかけた光が、人の形を成しているかのようだった。


モーリスは手を伸ばしていた。

だがその手はシビルを掴んではおらず、ただ彼女の存在の輪郭をなぞっているだけだった。


「来たか」

言葉は夕焼けに紛れて静かに響いた。

「やはり、“魔女”は自分の記録だけは捨てきれないらしい」


アラヤは言葉を返さなかった。

ただ、構えた銃口をぶれさせることなく、歩を進めた。


「シビルを渡しなさい」

声に感情はなかった。氷のように均衡していた。


モーリスは振り向かなかった。

「君たちは、“純粋記憶装置”に何を見てる?

希望か?救済か?それとも未来?

……だが、この子は、ただの幼女ではない。

世界の“外側”そのものだ」


「それでも、彼女は“今ここにいる”のよ」


その言葉に、モーリスはゆっくりと振り返った。

背後の夕焼けが、彼の顔の輪郭を滲ませていた。

影と光の交錯が、表情を読ませなかった。


「君の意志は、本当に“国家”にあるのか?」

モーリスの言葉が、コンクリートの床に滑るように届く。

「君のスパイ活動は、誰のためにある?

君が守ってきた“記録”が、もし全て演出だったとしたら?

君が信じてきた正義が、“世界の終わり”を加速させるための舞台だったとしたら?」


アラヤの手が微かに震えた。

指の間にある引き金が、一瞬だけ遠くなった。


「世界統制官のシナリオは、もう長くない」

モーリスはまるで、夕日と対話するかのように言った。


「世界統制官……?こんな時に何を言ってるの?」


「真実が知りたいなら、私の元に来るべきだ」

声は低く、そして異様に穏やかだった。

誘うというより、すでに決まっている運命を述べているかのように。


アラヤは一度目を閉じた。

その奥で、銃声と涙と火の匂いが交錯する。

そのすべてが、ヴァンの声と重なった。


「……お断りするわ」


銃声が空を裂いた。

弾丸が、モーリスの肩を正確に貫こうとした――

だが、空気が波打ち、銃弾は突如として宙で止まり、熱に溶けるように消えた。


モーリスは動かなかった。

ただ、シビルの頭に静かに手を当てると、短い言葉を呟いた。


「……また、会うよ。記録の外側で」


風が吹いた。

空気の縫い目が開かれ、夕日の向こうにゆらめく“何か”が現れた。

彼とシビルの姿は、そこへ吸い込まれるようにして消えた。

音もなく、香りも残さず。


魔術的干渉。座標転移。

この次元のどこにも、追跡の糸はもう存在しなかった。


アラヤは屋上の端に立ち、崩れかけた街を見下ろした。


市庁舎には、革命戦線の赤い旗が風に揺れていた。

道路の上では、人々が爆竹を投げ合い、火を焚き、叫び、肩を抱き合っていた。

祝福にも似た悲鳴と銃声の交錯。


ダロンは“解放”された。

だがその勝利は、どこか薄く、音を立てずに空へ昇っていく煙のようだった。


背後で足音がした。

ラーダだった。

額に煤をつけ、息を整えながら近づいてきた。


「ヴァンはどうしたの?」


「見送ってきたよ」

その声に、感情はなかった。

感情を入れれば崩れてしまうことを知っていた。


アラヤは頷いた。

風が髪を揺らし、火の粉が遠くで舞った。


「ねえ……勝ったの? この戦争って」

ラーダが問う。アラヤはその言葉に首を傾げた。

「誰が?」


その問いは、アラヤの胸に深く沈んだ。

勝者。敗者。英雄。犠牲者。すべてが曖昧だった。


ただ、モーリスの言葉が、耳の奥に刺さったままだった。


──君のスパイ活動は、何のためだ?

──世界統制官のシナリオは、長くない。


アラヤは目を閉じた。

その暗闇の中に、焼け落ちた街と、ヴァンの笑みと、シビルの無表情が浮かんでは消えた。


握った拳が、何も握れないことだけを知っていた。




夕刻、海から風が吹いている。

別荘のプールには波一つなく、透明な水が鏡のように空を映していた。


室内、スターリンはバルコニー越しにその光景を眺めながら、受話器を耳に当てていた。

少年の顔をした統治者。その瞳には、老いた記憶の光があった。


「……そうだ。ナイ・ペレ将軍、君の“革命”は人民の記憶に新しい一行を刻んだ。

解放の旗は、予定通り風に翻っている。

我々は君の成し遂げた“秩序的混沌”を、正当に評価しよう」


受話器の向こうで、ナイ・ペレが何を言ったかはわからない。


ただ、スターリンは無表情に頷いた。


「ええ、もちろん。

“正常化”のための調整は、我々が担当する。

それでは……人民に栄光を」


彼は静かに受話器を戻した。



一拍置いて、スターリンは深く椅子に腰を沈める。

部屋には誰もいない。


横のサイドテーブルには、何冊かの本が無造作に置かれていた。


そのうちの1冊――『ナイン・ストーリーズ』と書かれている――に、彼の細い指が触れたが、ページは開かれない。


風がレースのカーテンを揺らす。


スターリンの視線は窓の向こう、どこか遠くを見ていた。


「……そこまで“知った”のなら……

“代わり”を用意しなければいけないだろう。ナイ・ペレも、アラヤも」


外では、遠くの海の方角に、空を割るような雷が走っていた。


そして静かに立ち上がる。


背丈130cmほどの体に、不気味なほどの“権力”の影が宿っていた。


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