11:今そこにある地獄
道とは呼べないものの上に、無数の足音と轍が残っていた。
アスファルトの名残は泥に浸され、ひび割れた路肩には、開封されかけて腐った缶詰、真っ黒に焦げたぬいぐるみ、大破した車のフレームが転がっていた。
そこにはもう“移動”という機能はなく、ただ文明の死体だけが静かに風化していた。
アラヤ、ラーダ、ヴァン、シビルの四人は、崩れかけた難民の流れに紛れて進んでいた。
誰もが目を逸らし、誰とも目を合わせず、肩をすくめるようにして歩いていた。
その空を――
尾翼に金の紋章を掲げた、王室連合空軍の戦闘機編隊が切り裂いた。
灰色の曇天に白い軌跡が伸びる。
一瞬の静寂。
それを破ったのは、焼夷弾の鋭い落下音だった。
爆炎が草地に落ちた。
火球が一つ、また一つ――
後方で、列をなしていた難民たちの叫びが、濁った風に乗って広がる。
村が燃え、牛が叫び、木々が黒い煙に消えていく。
列は乱れた。
人々は秩序を捨てて走った。
だが、逃げ場はなかった。
道は狭く、両脇の林は地雷で封鎖されていた。
誰かの子供が転び、踏みつけられ、悲鳴は一つに溶けていった。
アラヤたちは混乱の外周を縫うように進路を逸らした。
ラーダとヴァンのバイクは、小刻みに角を曲がり、旧王室連合系の高級住宅街へと足を踏み入れた。
だが、そこに待っていたのも――地獄だった。
石造りの塀には銃弾の痕が散り、焦げたタイルが瓦礫の山に変わっていた。
瓦礫の隙間から、ねじれた手足が覗く。
焼かれたプランテーション邸宅の門扉の前で、十代半ばの少年兵がショットガンを持って座っていた。
少年は銃口から吹き出る煙を吸っていた。
腕には十数本の腕時計。
指には大人のものと思われる指輪が、サイズの合わぬまま無造作に光っていた。
目が、アラヤに向いた。
「女か……おい、まだ生きてる女が残ってたぞ!」
その声に反応するように、周囲の家屋からも少年たちが姿を現した。
銃を抱え、肩を揺らし、誰もが狂気と薬物の膜に包まれていた。
「この戦闘服が見えない? 一応まだ味方のはずだけど」
アラヤは冷ややかに言葉を投げた。
「しらねーよ、そんなの。
どうせ殺して裸に剥けばわかんねーって。
その男も殺す」
銃口が向いた。
反射的にヴァンがシビルを庇い、ラーダの陰に飛び込んだ。
「残念ね」
アラヤの声が降りると、世界が一瞬だけ凍った。
時間が、止まった。
一歩、また一歩。
アラヤは音もなく少年兵たちの背後にまわり、
引き金に指をかけた。
時間が動き出すと同時に、銃声が重なった。
敵は反応する間もなく崩れた。
銃を構える前に脳天を撃ち抜かれ、
誰かが叫ぶよりも早く、膝をついた。
ヴァンは無言で応戦し、ラーダは身体を盾にしてシビルを守っていた。
少年たちは、周囲に転がる富農の死体と同じように、
名もなく、ただ瓦礫と血の中に積み重なっていった。
「ひでえな……所詮は少年兵か。
逃げ遅れたブルジョワ狩りってところだろう」
ヴァンが肩で息をしながら呟いた。
「略奪に……女って言ってたから。
あまりその先は、考えたくはないわね」
アラヤは低く答えた。
「なるべく、シビルには見せないで」
「分かってる」
アラヤは背後にまわり、静かにしゃがんだ。
「大丈夫?」
シビルは何も答えなかった。
ただ、いつもの遠い目で虚空を見ていた。
だが、その瞳の奥に、微かに揺らぐ光が見えた。
それが恐怖か、哀しみか、それとも名前のない感情か。
アラヤには分からなかった。
ただ、その手をもう一度、強く握り直した。
「急ごう」
ヴァンの声が戻る。
「いつまた似たような連中に襲われるか、わからん」
アラヤは頷いた。
彼女はラーダに跨り、シビルを抱えたまま乗せる。
ヴァンも自分のバイクに跨がり、後を続く。
路上に並ぶ死体の山を一瞥する。
髪は焦げ、顔は潰れ、名前など、とうに失われていた。
日暮れの光が低くなり、空は赤茶けた雲に包まれていた。
ダロン郊外――かつて穀物を貯蔵していたであろう農業倉庫の廃墟が、風の中に静かに崩れかけていた。
瓦礫の壁に沈む影の中、武装した一人の男が立っていた。
コンバットシャツ、ボディーアーマー、傷一つないブーツ。
左腕に縫い付けられたパッチの白いうさぎが、どこか絵本めいて不釣り合いだった。
「『失礼ですが、どちらまで?』」
アラヤの"合言葉"に男が答える。
「『今はダロンに、先はトアレイ』」
ラーダが合言葉を照合し、アラヤに合図する。
「多分あの男ね。合言葉は合ってる」
アラヤがシビルの手を引き、男の前に立つ。
「引き渡し役のモーリスだ」
「"バナナフィッシュ"はこの子よ」
男は軽く敬礼し、無感情に言葉を投げた。
「引き渡し、感謝する。上に繋げておく。この子は……人類の鍵だ」
その言葉に、アラヤの指先が一瞬だけ反応したが、表情は崩れなかった。
疑念を口にするより、まずは“形式”を終えることを選んだ。
シビルは車に乗せられ、後部座席からアラヤを見続けていた。
細い腕が窓越しに伸ばされる。
「……また、夢のなかで会える?」
か細い声が届いた気がした。アラヤは答えなかった。
エンジンがかかり、車両は轍を鳴らしながらゆっくりと走り去っていく。
そのシビルの最後の表情だけが、アラヤの瞳の残影に最後まで残っていた。
「私情は捨てた方がいいわ」
ラーダの声は変わらず乾いていた。
アラヤは、風に流された砂埃を見つめながら、低く答えた。
「分かってる。分かっているけど……」
ラーダは手元の端末を操作していた。
「この周囲、通信が完全にジャミングされてる。奇妙な静けさ。軍の封鎖にしては雑すぎる…」
一行が倉庫を後にしてまもなく、農道の脇で異様な光景に出くわした。
道を塞ぐように、横転した車両があり、その隣に転がる男の遺体。
顔は血で汚れ、胴には無数の刺創があった。
ヴァンが警戒しながら接近し、ラーダが身元確認を行う。
数秒後、彼女は目を見開いた。
「この人……本来、あんたが引き渡すはずだった“受け取り人”よ」
手には認識票が握られていた。
刻印された番号、氏名、そして「東方人民連盟」の文字。
アラヤは風のない空気の中で、喉の奥に沈殿するような冷たさを感じていた。
体の芯に、血とは別の粘性が滲んでくる。
「じゃあ……あの男、モーリスは?」
その問いに、誰も即答はしなかった。
「王室連合の工作員……か、もしくは、もっと厄介な連中と通じている可能性がある」
ヴァンは腕を組みながら唇を噛んだ。
「名前を偽っていた以上、奴の目的は単なる引き渡しじゃない。“連れて行く”ことそのものが作戦だった可能性もある」
「けど、行き先は限られている」
ラーダが地図と端末を照合しながら言う。
「この地域で国外と繋がる安全な出口は、州都ダロンだけ。革命戦線の攻囲下とはいえ、連合がまだ押さえている部分もある」
アラヤはすぐに答えた。
「こんなこともあろうかと、シビルに追跡魔符を書いておいたわ。皮膚に直接、見えないインクで……」
「マジか」
ヴァンが口を開けたまま目を見張る。
「でも効果は短い。数日で消える。ラーダ、現在の信号は?」
「解析完了。移動中。街道沿いを南下してるわ。確かにダロンに向かってる」
ラーダは目を細め、再び地図を睨んだ。
「ただし、正面は戦線。東側は空爆。北は壊滅。選択肢は一つ、死の谷みたいな地帯を突っ切るしかない」
アラヤは顎を引いた。
「決まりね。あの奪った男から、シビルを取り戻す。どこへ逃げようと」
ヴァンは肩のライフルを下ろし、銃の装填を確認していた。
「いいさ。俺の“契約”もまだ終わっちゃいない。
あの子を守るっていう契約は――たとえ最後の弾まででも履行するさ」
空を仰ぐと、雲はますます厚みを増していた。
遠く、地平線の向こうでは、ダロンの街が燃えているのがわかった。
王室連合の植民地軍は各地で潰走し、
革命戦線の旗が、まるで燃え上がる焔のように州全体を包み始めていた。
アラヤはその光景の向こうを見た。
炎の先にあるもの――ただの混沌か、それとも……
「行きましょう」
彼女の声は、地面に足を戻すように重かった。




