9:泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
夜のグリーンハウスは、どこか異様な静けさに包まれていた。
兵舎の近く、燃え残りの焚き火と濃密な湿気の中で、アラヤは足を止めた。
そこには少年兵たちがいた。
軍服もまともに揃っておらず、足元は裸足かサンダル。
彼らは使い古した自動小銃のチャンバーに、細く巻かれた紙や乾燥した何かを詰め込み、それに火をつけていた。
銃口から、甘ったるい、薬品のような煙が吹き出す。
その煙を一人ずつ口元に運び、吸い込み、そして吐く。
表情は恍惚と虚脱のあいだを揺れ動き、笑い出す者、泣き出す者、狂ったように踊りだす者までいた。
それらすべてを、アラヤは冷静に観察していた。
感情を沈め、ただ沈黙のまま――。
「やっぱり変だね」
ラーダが静かに背後から現れた。
「通信機を貸してほしいと頼んだら、無線封止中だって断られた。
でも、あれは作戦中のジャミングとは違う。内部から、意図的に遮断されてる」
アラヤは頷いた。
「ナイ・ペレは信用できない。罠かもしれない。
今夜中に外に出て、通信を確保する」
「それがいいな」
ラーダは足元の石を蹴り飛ばしながら答えた。
「私はシビルのところに行ってくる。アラヤは?」
「司令塔。ヴァンとドゥオンに話を通しておきたい。
彼らなら、まだ話ができる」
ラーダは一瞬だけ笑みを見せた。
「ナイ・ペレが敵に回るかもよ。用心して」
アラヤは肩をすくめた。
「あなたもね」
司令塔の中は静まり返っていた。
日中の喧騒とは打って変わって、ほとんど人気がない。
だがその静けさは、決して安寧のものではなかった。
アラヤがドアを開け、一歩踏み入れた瞬間。
周囲の闇が揺れた。
複数の銃口が、彼女に向けて立ち上がった。
アラヤを包囲する兵士たち。その中央に立っていたナイ・ペレは、いつもの笑みを浮かべていなかった。
「これはこれは、アレクサンドラ少佐」
声は冷たく乾いていた。
「こんな夜中に、何の用かな?」
アラヤは一歩も退かずに言った。
「あなたこそ、軍事顧問に銃を向けるのはどういうつもり?」
「君なら、もう気づいているだろう」
ナイ・ペレの声にはもはや偽りの優しさもなかった。
「“バナナフィッシュ”を狙っているのは王室連合や帝国だけではない。
我々も、なのだよ。あのウィレムという男は実に興味深い話をしてくれた」
そのとき、背後の扉が開き、ドゥオンが駆け込んできた。
目は見開かれ、声が震えていた。
「どういうことです将軍! これは一体――」
ナイ・ペレはドゥオンを見もせず、ただ短く答えた。
「同志ドゥオン。あまりこの件に立ち入らない方が良い」
「納得できません。現に彼女は――」
銃声が、室内を貫いた。
ドゥオンの額に、暗い穴が開いた。
その身体が、音もなく倒れる。
ナイ・ペレの右手の拳銃から、煙が静かに立ち上っていた。
「残念だ」
アラヤの瞳が揺れた。
「あなた……!」
「国家の存亡がかかっている」
ナイ・ペレはなおも平然と語る。
「それに比べれば、どうということはない犠牲だ。
おい、片付けておけ」
兵士のひとりがドゥオンの遺体に近づき、腕を掴む。
アラヤは拳を握りしめた。
「仮にも支援している国の軍事顧問を殺して、無事で済むと思っているなら間違いよ」
「簡単さ」
ナイ・ペレは薄く笑った。
「“軍事顧問殿は敵の先頭に立ち、壮烈な戦死を遂げられた”。
君たちの本国には、そう伝えれば済む話だ。
それとも――
“異国の地で悲恋の末に無理心中を図った軍事顧問”と記録されたいかね?」
アラヤの声が冷たくなった。
「……これ以上の会話は無用ね」
「そのようだ」
その瞬間――外から、激しい爆音がグリーンハウスを貫いた。
建物が揺れ、床の埃が舞い上がる。
「何だ!?」
ナイ・ペレが叫ぶ。
アラヤの瞳が、静かに光を帯びる。
時間加速。
世界が引き伸ばされる。
全ての動きが遅くなる。
アラヤの体感時間が、現実の数倍に跳ね上がる。
彼女は腰に手を伸ばし、消音拳銃を抜いた。
一歩踏み出し、兵士の背後に回り込む。
一発。二発。
頭部と胸部に、それぞれ正確な穴が開く。
能力解除。
空気が戻る。
兵士の身体が崩れ、他の兵たちが動き出すより早く、
アラヤは包囲していた兵士の一人に肉薄し、その身体を盾にした。
銃が火を吹く。
盾とされた兵士が崩れ落ちると同時に、アラヤは反転し、銃を連射。
三人目、四人目が倒れる。
ナイ・ペレは柱の陰に身を滑り込ませ、銃を構えた。
だが、既にアラヤの姿は煙の中に消えていた。
発煙弾が放たれ、部屋に白濁の霧が広がる。
咳き込みながら兵たちが辺りを探る間に、アラヤは司令塔の扉を蹴破って飛び出した。
彼女の視線の先には、ただ一つ――シビルとラーダがいる居住棟の灯りがあった。
その足取りは迷いなく、夜の緑と火の匂いの中を、真っ直ぐに進んでいた。
廊下の奥に、乾いた銃声が木霊していた。
薄い鉄板の壁を弾丸が叩き、その衝撃で天井の埃が舞い上がる。
照明は断たれ、赤い非常灯の明滅だけが床を染めていた。
アラヤは息を潜めながら角を曲がる。
足音は殺し、視線だけで敵の位置を探った。
居住棟の最奥、ひときわ頑丈なドアの前。
銃を構えた三人の兵士が、身を寄せて室内への侵入を狙っていた。
その銃口は、ラーダとシビルのいる部屋へと向けられていた。
アラヤは意識を集中させた。瞳が光る。
――時間停止、発動。
空気の流れが凍りつき、銃口から噴き出しかけた煙が宙に浮いたまま固まった。
兵士たちの動きも、表情も、完全に静止している。
アラヤは無言で歩み寄り、拳銃を構える。
一発、また一発。
弾丸が無音で肉を裂き、動き出した瞬間、兵士たちは遅れて崩れ落ちた。
時間が戻る。
重力がすべてを引きずり戻し、血と肉の音が遅れて廊下に散る。
アラヤはすぐさま扉を蹴開ける。
中では、机とベッドをバリケード代わりにした防衛陣が組まれていた。
ラーダは肩で息をしながら、銃口を扉に向けていた。
その背後で、シビルがうずくまり、身を小さくしていた。
ラーダは目を細め、少しだけ口角を上げた。
「遅刻よ」
「道が混んでた」
アラヤはそう返して笑う。
シビルがアラヤの姿を見た瞬間、はっとして目を見開き、
涙がひとしずく、頬を伝ってこぼれ落ちた。
アラヤはゆっくり膝をつき、少女をそっと抱きしめた。
その肩に、小さな指がぎゅっとしがみついた。
「やっぱりナイ・ペレは糞野郎だったってわけね」
ラーダの声が、あくまで冷静に響く。
「シビルを連れて逃げるわ。荒っぽくなるけど我慢して」
アラヤは立ち上がり、背中のハーネスを確認した。
「オーケー。そうこなくっちゃね」
ラーダの身体が機械音とともに変形を始める。
瞬く間にその姿は、鋼鉄の車輪を備えたバイクへと変わった。
赤いブレーキライトが点滅し、サドルが開いて背中の乗員を迎え入れる。
シビルは目を丸くして言葉もなかったが、
アラヤは素早くその身体をハーネスで固定し、背に抱えた。
「しっかり掴まってて」
言い終わるや否や、アラヤはバイクに跨った。
ラーダの車輪が床を滑り、前輪が持ち上がる。
重力が軋み、加速が始まった。
追撃の銃声が背後から走るが、反応は一瞬遅れた。
ラーダは廊下を一気に駆け抜け、ガラス窓へと突進する。
まばゆい光がガラスに映る。
アラヤは叫んだ。
「行って!」
窓ガラスが破裂する。
破片が舞い、外の空気が一気に流れ込む。
三人の影は、夜の闇へと突き抜けた。
直後、グリーンハウスの外で砲撃が始まった。
誰が撃ったのか、何の合図だったのか――
それすら判然としないまま、帝国時代の温室は音を立てて割れ始めた。
巨大なガラスのアーチが崩れ落ち、柱の間に隠されていた植物標本が炎に包まれる。
薬草、毒草、記録されなかった花々が、熱とともに焦げていく。
空に舞い上がるのは花びらではなく、火の粉だった。
燃える天井の下で、革命戦線の兵たちが悲鳴を上げて駆け出し、
誰が敵で誰が味方かも判別できぬまま、混乱が熱帯の夜に広がっていた。
その炎の淵を、三つの影が駆け抜けた。
ラーダのタイヤが泥に食い込み、ジャングルの細道へと滑り込む。
木々が倒れ、煙が追いすがる。
枝を掻き分け、獣道のような小径を貫いて、
三人は、熱と死と裏切りの都――グリーンハウスから逃れた。
背後で何かが崩れる音がした。
それが何だったのか、誰が死に、何が燃えたのか。
アラヤは振り返らなかった。
シビルの背中にある体温だけが、いま必要なすべてだった。




