8:密林と休息と葬送儀礼です
帝国時代に建てられた植物研究所――グリーンハウス。
今はもう、温室ではなかった。
かつて巨大なガラスドームを抱えていたその建物は、今や蔦とモルタルの混合物で覆われ、軍事用に再構築された「政治の温室」として変貌していた。
ドームの骨組みの一部は露出し、雨風に晒された鉄骨が赤茶けていた。
その下には、セメントの階層、地下通信網、衛星アンテナ、強化ガラスの監視塔。
だが不思議と、そこには戦場の匂いではなく、じっと息を潜める植物のような、奇妙な静けさが漂っていた。
ボートで到着したアラヤ達を迎えに現れたのは、革命戦線の指導者――ナイ・ペレ将軍。
仏僧のような生成りのローブをまとい、濃いサングラスをかけた男。
口元には笑みが浮かんでいたが、その笑みは熱帯に咲く毒花のようで、内側の毒がどこまで広がっているのか判別できなかった。
グリーンハウスの司令塔には、外壁一面をツタに覆われたテラスがあった。
そこに置かれた籐の椅子と白い陶器のティーカップは、軍事施設のものというより、退役外交官の趣味のようだった。
アラヤはその席に腰を下ろし、正面のナイ・ペレにまっすぐ視線を向けた。
横に置かれたティーカップから、甘いハーブの香りがかすかに上がっていた。
「本国へ帰還したい」
アラヤの声には、明確な要請としての硬さがあった。
「ヘリを用意していただけますか?」
ナイ・ペレは笑った。
それは空気を柔らかくするためではなく、力の所在を示すためのものだった。
「残念だが……この一帯は連合軍の制空圏の狭間にある」
彼の口調はまるで天気の話でもしているようだった。
「それに今、我が軍の飛行機はすべて攻勢作戦に出払っていてね。空は貸し出し中だ」
アラヤは瞬きを一つしてから言った。
「では陸路で」
「それも厳しいだろう」
ナイ・ペレはカップを手に取り、まるで毒を試すように一口だけ飲んだ。
「補給と移動のために主要な街道はすべて閉塞中だ。無論、徒歩という選択もあるが……道にはまだ王室連合が埋めた地雷がたくさん残っている。
しばらくここで休んでいくといい」
アラヤはテーブルに置かれたティーカップを見つめた。
その湯気は、もうほとんど失われていた。
「“休め”と言って帰れない場所のことを、私は“牢屋”と呼ぶ」
ナイ・ペレはにっこりと笑い、サングラスの奥にある目を隠したまま答えた。
「君が牢を牢と思わなければ、そこは庭にもなる。
あるいは……温室にも」
その言葉に、アラヤは返事をしなかった。
視線だけが、テラスの外――半ば崩れたガラスのアーチを越えて、緑と霧に満ちた園の奥へと向けられた。
数日が経った。
アラヤは、ラーダと共に、グリーンハウスの居住棟でシビルと過ごしていた。
その空間には植物の匂いが満ちていた。だがそれは新鮮な葉の香りではなく、誰かがかつて植え、忘れられたまま生き延びている苔や根の匂いだった。
壁には蔦が這い、廊下には開かずの温室の扉。
中には白骨化した監視用モニターが置かれ、電源は切れて久しく、埃だけが記録を残していた。
シビルは言葉少なだった。
それでも、時折、その瞳は明確な“他の記憶”を見ていた。
「……イェール大学に、炎が入ったの」
ある日、静かな廊下でシビルはぽつりと口にした。
「文字が燃えたの。みんな、“思想”の火事だったって、言ってた」
ラーダは記録端末を止め、わずかに顔をしかめた。
「今、なんて言ったの?」
アラヤは首を横に振り、答えなかった。
グリーンハウスの外縁は、政治と軍事の心臓部とは思えないほど静かだった。
かつて植物研究所の実験用に使われていた一帯は、今では半ば忘れられたような区画となり、濃緑の蔓がひび割れたガラスを覆い尽くしていた。
腐葉土の匂いと熱帯の湿気が混じり合い、空気の中に微細な命の粒子が漂っていた。
その中に、ひときわ異様な風景があった。
遺体。
並べられた死者たち。
欠損し、黒ずみ、既に腐敗が始まっているものもある。
皮膚の膨張した顔。焦げた指。
少年のものとしか思えない痩せた四肢。
その傍らに、一人の老婆がいた。
肩まで垂れる白髪を後ろでまとめ、染みだらけの粗末なローブを身にまとっていた。
背中を曲げながらも、黙々と遺体を動かしていたその姿に、アラヤはふと足を止めた。
「……あんたも魔女かい?」
老婆は振り返り、皺の奥から目を細めた。
「なら手伝いな。こういう役をやるのも、魔女ってもんだよ」
その声に拒絶の余地はなかった。
アラヤは気圧されるように、手袋を外し、遺体の一つに手をかけた。
死者の体は重かった。
腐臭と熱で膨れ、手を入れるたびに皮膚が滑り落ちた。
動かすたび、骨が音を立て、腕が千切れそうになった。
「かわいそうにねぇ……かわいそうにねぇ……」
老婆はそのたびに、唱えるように呟いていた。
「これ、あなた一人で?」
「そうさね。隠亡の役はあたしみたいな魔女しかやらんの。あんたも魔女ならわかるでしょ?」
老婆は地面に描かれた魔法陣の上へ、遺体を一体ずつ丁寧に並べていた。
やがて、アラヤもそれに倣った。
終えると、今度は祭壇の組み立てが始まった。
木の板を重ね、鏡、水、花、乾いた果実、白布、骨の粉、香草。
その作業の間に、何人かの兵士たちが、静かに周囲に集まってきた。
彼らの表情は固く、言葉はなかった。
だが視線は、それぞれの遺体に確かに何かを託していた。
老婆は祭壇の前にひざまずき、詠唱を始めた。
音節は古いもので、もはや意味を持たないはずの言葉。
だがその声には、死者を運ぶ舟の音のような、静かな力があった。
アラヤは指示に従い、鈴を鳴らし、金属製の鉢を叩いた。
音が重なるたび、魔法陣の中心に置かれた香が立ち昇り、次第に遺体の下から炎が灯る。
燃焼は静かだった。
爆発でもなく、消毒でもなく、別れそのものだった。
兵士たちは花や、松明を模した藁束を荼毘の炎へと投げ入れていった。
それが彼らの弔いだった。
自分の手で焼かれることのなかった死者たちへ、せめての贈り物だった。
詠唱が終わると、老婆は煙を見上げ、音もなく腰を下ろした。
「ハァ~どっこいしょと……」
そう言って、懐から長煙管を取り出し、火をつける。
「……あんたも呑みな」
アラヤは断ろうとしたが、老婆は軽く笑って押し込んだ。
東方人民連盟以外の地においては、魔女のタバコの回し呑みは独特の意味を持つ行為だ。
「いいから」
煙管の先に口をつけた。
乾いた香草と薬草の煙が肺を満たし、記憶の底に触れるような感覚が脳をなぞった。
「……どこから来たの?」
老婆の問いに、アラヤは少し間を置いて答えた。
「東方人民連盟。ここからは北……かなり遠い」
「へぇ」
老婆は小さく笑った。
「いつもこんな仕事を?」
アラヤが老婆に尋ねる。
「あんたも魔女なら、こんな仕事が基本ってわかるでしょ?」
「……いえ、私の国ではこういうことは……あまり」
「だろうね。どうせ戦争の道具にされてるんだろ。
あたしは、戦争なんてまっぴらごめんさ。
大勢死んだよ、あんたみたいな若い子ばっか。
こうして燃やせるだけマシな方で、体が残らないのも多かった。
ジャングルの奥で獣に食われ、泥に沈んで……まぁ、かわいそうで」
煙を深く吸い、吐き出す。
「占ってみたけどね。じきにこの戦争も終わる。
でも、戦争が終わっても、“後始末”って奴がある。
それでまた、死体が増えるだけ。ほんと、嫌になるねぇ」
「……占いなんか、やる土地なのね」
「なんなら、あんたのも見てやろうか? 手伝ってくれた礼に」
老婆はアラヤの手を取り、掌を眺めた。
指先で皮膚をなぞり、何かを読み取るように目を細めた。
「うーん…面白い相ねあんた…」
その目が、ふと変わった。
「……こりゃ……」
「何?」
アラヤは身じろぎもせず、ただ訊ねた。
「何か見えた?」
「いや…あんた…一つ言っておくけどね」
老婆は煙管を咥えたまま立ち上がり、アラヤを真っ直ぐ見た。
その目は、先ほどまでの優しげな魔女ではなく、何か“もっと深いもの”を見通す者のそれだった。
「裏切りに気を付けな」




