表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

34/88

8:密林と休息と葬送儀礼です

帝国時代に建てられた植物研究所――グリーンハウス。

今はもう、温室ではなかった。


かつて巨大なガラスドームを抱えていたその建物は、今や蔦とモルタルの混合物で覆われ、軍事用に再構築された「政治の温室」として変貌していた。

ドームの骨組みの一部は露出し、雨風に晒された鉄骨が赤茶けていた。

その下には、セメントの階層、地下通信網、衛星アンテナ、強化ガラスの監視塔。

だが不思議と、そこには戦場の匂いではなく、じっと息を潜める植物のような、奇妙な静けさが漂っていた。


ボートで到着したアラヤ達を迎えに現れたのは、革命戦線の指導者――ナイ・ペレ将軍。

仏僧のような生成りのローブをまとい、濃いサングラスをかけた男。

口元には笑みが浮かんでいたが、その笑みは熱帯に咲く毒花のようで、内側の毒がどこまで広がっているのか判別できなかった。


グリーンハウスの司令塔には、外壁一面をツタに覆われたテラスがあった。

そこに置かれた籐の椅子と白い陶器のティーカップは、軍事施設のものというより、退役外交官の趣味のようだった。


アラヤはその席に腰を下ろし、正面のナイ・ペレにまっすぐ視線を向けた。

横に置かれたティーカップから、甘いハーブの香りがかすかに上がっていた。


「本国へ帰還したい」

アラヤの声には、明確な要請としての硬さがあった。

「ヘリを用意していただけますか?」


ナイ・ペレは笑った。

それは空気を柔らかくするためではなく、力の所在を示すためのものだった。


「残念だが……この一帯は連合軍の制空圏の狭間にある」

彼の口調はまるで天気の話でもしているようだった。

「それに今、我が軍の飛行機はすべて攻勢作戦に出払っていてね。空は貸し出し中だ」


アラヤは瞬きを一つしてから言った。

「では陸路で」


「それも厳しいだろう」

ナイ・ペレはカップを手に取り、まるで毒を試すように一口だけ飲んだ。

「補給と移動のために主要な街道はすべて閉塞中だ。無論、徒歩という選択もあるが……道にはまだ王室連合が埋めた地雷がたくさん残っている。

しばらくここで休んでいくといい」


アラヤはテーブルに置かれたティーカップを見つめた。

その湯気は、もうほとんど失われていた。


「“休め”と言って帰れない場所のことを、私は“牢屋”と呼ぶ」


ナイ・ペレはにっこりと笑い、サングラスの奥にある目を隠したまま答えた。

「君が牢を牢と思わなければ、そこは庭にもなる。

あるいは……温室にも」


その言葉に、アラヤは返事をしなかった。

視線だけが、テラスの外――半ば崩れたガラスのアーチを越えて、緑と霧に満ちた園の奥へと向けられた。



数日が経った。


アラヤは、ラーダと共に、グリーンハウスの居住棟でシビルと過ごしていた。

その空間には植物の匂いが満ちていた。だがそれは新鮮な葉の香りではなく、誰かがかつて植え、忘れられたまま生き延びている苔や根の匂いだった。


壁には蔦が這い、廊下には開かずの温室の扉。

中には白骨化した監視用モニターが置かれ、電源は切れて久しく、埃だけが記録を残していた。


シビルは言葉少なだった。

それでも、時折、その瞳は明確な“他の記憶”を見ていた。


「……イェール大学に、炎が入ったの」

ある日、静かな廊下でシビルはぽつりと口にした。

「文字が燃えたの。みんな、“思想”の火事だったって、言ってた」


ラーダは記録端末を止め、わずかに顔をしかめた。

「今、なんて言ったの?」


アラヤは首を横に振り、答えなかった。




グリーンハウスの外縁は、政治と軍事の心臓部とは思えないほど静かだった。

かつて植物研究所の実験用に使われていた一帯は、今では半ば忘れられたような区画となり、濃緑の蔓がひび割れたガラスを覆い尽くしていた。

腐葉土の匂いと熱帯の湿気が混じり合い、空気の中に微細な命の粒子が漂っていた。


その中に、ひときわ異様な風景があった。


遺体。

並べられた死者たち。

欠損し、黒ずみ、既に腐敗が始まっているものもある。

皮膚の膨張した顔。焦げた指。

少年のものとしか思えない痩せた四肢。

その傍らに、一人の老婆がいた。


肩まで垂れる白髪を後ろでまとめ、染みだらけの粗末なローブを身にまとっていた。

背中を曲げながらも、黙々と遺体を動かしていたその姿に、アラヤはふと足を止めた。


「……あんたも魔女かい?」

老婆は振り返り、皺の奥から目を細めた。

「なら手伝いな。こういうえきをやるのも、魔女ってもんだよ」


その声に拒絶の余地はなかった。

アラヤは気圧されるように、手袋を外し、遺体の一つに手をかけた。


死者の体は重かった。

腐臭と熱で膨れ、手を入れるたびに皮膚が滑り落ちた。

動かすたび、骨が音を立て、腕が千切れそうになった。


「かわいそうにねぇ……かわいそうにねぇ……」

老婆はそのたびに、唱えるように呟いていた。


「これ、あなた一人で?」


「そうさね。隠亡の役はあたしみたいな魔女しかやらんの。あんたも魔女ならわかるでしょ?」


老婆は地面に描かれた魔法陣の上へ、遺体を一体ずつ丁寧に並べていた。

やがて、アラヤもそれに倣った。


終えると、今度は祭壇の組み立てが始まった。

木の板を重ね、鏡、水、花、乾いた果実、白布、骨の粉、香草。


その作業の間に、何人かの兵士たちが、静かに周囲に集まってきた。

彼らの表情は固く、言葉はなかった。

だが視線は、それぞれの遺体に確かに何かを託していた。


老婆は祭壇の前にひざまずき、詠唱を始めた。

音節は古いもので、もはや意味を持たないはずの言葉。

だがその声には、死者を運ぶ舟の音のような、静かな力があった。


アラヤは指示に従い、鈴を鳴らし、金属製の鉢を叩いた。

音が重なるたび、魔法陣の中心に置かれた香が立ち昇り、次第に遺体の下から炎が灯る。


燃焼は静かだった。

爆発でもなく、消毒でもなく、別れそのものだった。


兵士たちは花や、松明を模した藁束を荼毘の炎へと投げ入れていった。

それが彼らの弔いだった。

自分の手で焼かれることのなかった死者たちへ、せめての贈り物だった。


詠唱が終わると、老婆は煙を見上げ、音もなく腰を下ろした。


「ハァ~どっこいしょと……」

そう言って、懐から長煙管を取り出し、火をつける。


「……あんたも呑みな」


アラヤは断ろうとしたが、老婆は軽く笑って押し込んだ。

東方人民連盟以外の地においては、魔女のタバコの回し呑みは独特の意味を持つ行為だ。


「いいから」


煙管の先に口をつけた。

乾いた香草と薬草の煙が肺を満たし、記憶の底に触れるような感覚が脳をなぞった。


「……どこから来たの?」

老婆の問いに、アラヤは少し間を置いて答えた。


「東方人民連盟。ここからは北……かなり遠い」


「へぇ」

老婆は小さく笑った。


「いつもこんな仕事を?」


アラヤが老婆に尋ねる。


「あんたも魔女なら、こんな仕事が基本ってわかるでしょ?」


「……いえ、私の国ではこういうことは……あまり」


「だろうね。どうせ戦争の道具にされてるんだろ。

あたしは、戦争なんてまっぴらごめんさ。

大勢死んだよ、あんたみたいな若い子ばっか。

こうして燃やせるだけマシな方で、体が残らないのも多かった。

ジャングルの奥で獣に食われ、泥に沈んで……まぁ、かわいそうで」


煙を深く吸い、吐き出す。


「占ってみたけどね。じきにこの戦争も終わる。

でも、戦争が終わっても、“後始末”って奴がある。

それでまた、死体が増えるだけ。ほんと、嫌になるねぇ」


「……占いなんか、やる土地なのね」


「なんなら、あんたのも見てやろうか? 手伝ってくれた礼に」


老婆はアラヤの手を取り、掌を眺めた。

指先で皮膚をなぞり、何かを読み取るように目を細めた。


「うーん…面白い相ねあんた…」


その目が、ふと変わった。


「……こりゃ……」


「何?」


アラヤは身じろぎもせず、ただ訊ねた。


「何か見えた?」


「いや…あんた…一つ言っておくけどね」


老婆は煙管を咥えたまま立ち上がり、アラヤを真っ直ぐ見た。

その目は、先ほどまでの優しげな魔女ではなく、何か“もっと深いもの”を見通す者のそれだった。


「裏切りに気を付けな」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ