7:チャーリーは波に乗らない
ボートは南へ向かって流れ続けていた。
川は深く、夜は濃く、そしてグリーンハウスまでの最後の航路が始まっていた。
静寂の中で、アラヤは甲板に座り、シビルの頭を膝に乗せていた。
少女の体温はぬくもりとも違い、ただ存在の証拠のように感じられた。
ラーダが隣に腰を下ろし、背中を伸ばしたまま言った。
「……で、あの子。何を見ていて、何を思ってるの?」
アラヤは返事をせず、ただシビルの髪を指で梳いた。
少し間を置いてから、ぽつりと呟く。
「……この子が何を知っていて、何を思っているのか。
それを理解できるほど、私は人間じゃない」
ラーダが笑った。
それは冷笑でも皮肉でもなく、どこかあたたかい、肩の力が抜けた音だった。
「でも、たぶん“人間じゃない何か”しか、理解できないこともあるのよ」
川が静かに流れていった。
風は変わらず、だが何かが、ほんの少しだけ変わった気がした。
月が、曇りの向こうから、かすかに顔を覗かせていた。
川の音が、絶え間なく響いていた。
尋問室と呼ぶにはあまりに簡素なその場所は、もともと弾薬を格納していた狭い空間だった。
金属の壁に剥がれた塗装と弾痕がいくつも残り、吊られたランプの灯りが揺れていた。
アラヤは沈黙のまま立ち尽くしていた。
目の前に座る男は、汚れた軍服の襟を整えながら、ふてぶてしく笑っている。
ウィレム・ハック。
王室連合の騎士。
捕虜となってなお、威厳の仮面を捨てていなかった。
「私は拷問の専門家じゃないが……君みたいな若い女の子にやられるのも悪くないね」
彼の口元が歪むと同時に、奥にいたドゥオンが一歩踏み出しかけた。
「口の聞き方を覚えた方がいい」
その声には感情の棘があった。
ウィレムは肩をすくめる。
片腕を吊られながらも、その姿にはどこか余裕があった。
「いいのか?私を殺せば、王室連合からの身代金は減るぞ。こう見えても私は大身の騎士だ。勲章もある」
「ふざけるな……」
ドゥオンの舌打ちが響いた。
アラヤは視線を逸らさずに言った。
「必要なのは情報。それだけ。
あなたがどれほど演技が上手でも、関係ないわ」
声は平坦だった。
感情の温度が削ぎ落とされ、ただ言葉の骨だけが残っていた。
ウィレムはその冷たさを楽しむように口角を上げる。
「情報ね……まあ、もう大した意味はない。
そもそもこの戦争は、すでに死に体さ。諸侯たちは手を引きたがっているし、兵士には戦意もない。
植民貴族どもは我先に利権を掻き集めて、脱出の手配を進めてるよ。
君たちの勝ちだ。じきにわかる」
「だがな――」
ドゥオンが割って入る。
「あの爆撃を見ても、そう言えるのか?」
「こけおどしだ。弾薬も燃料も尽きる。制空権を維持する余力なんて、もう残っていない」
ウィレムの声は冷笑を帯びていた。
「効果がない、だと? 貴様、あの爆撃で何人民間人が死んだと思っている…!」
ドゥオンの怒声が部屋に響いた。
その怒りを、アラヤが手のひらで制した。
「おしゃべりより、本題に入りたいわ」
彼女の声は静かだった。
「なぜ、あの少女を狙っているの?」
ウィレムの口元から、かすかな笑みが消えた。
代わりに、沈黙が落ちた。
しばらくの間、川の音だけが部屋を満たした。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「……君たちが拾った、あの金髪の少女――シビル・カーペンター。
彼女はただの難民じゃない。君も、薄々気づいているだろう?」
アラヤは応えず、ただ目を細める。
ウィレムはそれを確認すると、静かに続けた。
「彼女は、“純粋記憶装置”だ。
この世界のすべての記憶……あるいは、この世界ではないものの記憶までも、
構造として“内蔵”している。
観測でも保存でもない。存在の“重ね書き”だよ」
その言葉に、アラヤは初めて一瞬、息を詰めた。
ラーダが壁際で記録端末を操作していたが、その手を止めた。
「この世界“ではないもの”? 意味不明ね」
ウィレムは頷いた。
「だろうな。だが、彼女は語るはずだ。
“あの戦争”の話を」
アラヤは眉を動かした。
「“あの戦争”?」
「そうだ。君たちの戦争ではない。けれど、よく似ている。
かつてどこかで起きた、あるいはこれからどこかで起きる、戦争の記憶だ。
彼女の中にはそれがある。
……いや、ある“ふり”をしているのかもしれないがね」
彼は笑みを浮かべたが、どこか乾いていた。
「私たちは彼女を追っていた。
理由は簡単だ。“白うさぎ”を潰すためだ」
アラヤの目が鋭くなる。
「白うさぎ……何を知っているの?」
「君の方が詳しいんじゃないのか?」
ウィレムは肩を揺らす。
「我々王室連合の情報網を、ずっと何者かに掻き乱されていた。
それは偶然じゃない。“白うさぎ”と呼ばれる何者かによる仕業だ。
個人かもしれない。組織かもしれない。
だが確実に存在している――国家を超越したスパイネットワークが。
我々はずっと後手を踏まされ続け、
気がつけばこの如楠という肥溜めに肩まで浸かっていた」
アラヤは小さく呼吸を整え、続けて尋ねる。
「他に知っていることは?」
ウィレムは沈黙を挟んだのち、ゆっくりと顔を上げた。
「さぁね……。
だが、君たちの中にもいるんじゃないのか? 白うさぎが」
その言葉と同時に、彼の視線がアラヤをまっすぐに射抜いた。
尋問室に再び、川の音が満ちていた。
船底の寝台室は、川の音で満たされていた。
天井には乾いた虫の死骸がひとつ、黒い点のように貼りついている。
微かな揺れに合わせて、金属のベッドフレームがきしり、灯りは丸いランタンひとつだけだった。
シビル・カーペンターは、そのベッドの上で膝を抱えて座っていた。
金色の髪が頬にかかり、裸足の指が薄布の上でかすかに動いていた。
窓は小さく、外の川は見えなかった。
だが、水の流れる音だけは、ずっとそこにあった。
絶えず、どこかで世界が動いているという証拠のように。
その静けさの中、少女はぽつりと口を開いた。
「……フエで、ナパームを使ったのは間違いだった。
あのとき、カンボジアに拡大しなければ……」
室内にいたラーダが振り返った。
その声には、明らかに「ここではない場所」の湿度と灰のにおいが含まれていた。
「今、何を言ったの?」
アラヤは座っていた椅子から身を起こし、シビルを見た。
「……フエも、カンボジアも、ここにはない。
シビル、それはどこで見たの?」
だが、少女は答えなかった。
ただ、小さく震える声で、もう一度、まるで誰かに読んでもらった絵本のように、別の言葉を口にした。
「“アメリカの負け方”は、いつも同じ。
……最後に残るのは写真だけ。燃えた村と、笑ってる兵士の」
その言葉に続く音はなかった。
水音だけが船体を撫で、川の流れが船の下を抜けていく。
その夜、アラヤはシビルの部屋に残ることにした。
ラーダは外の見張りに出ていた。
ヴァンとドゥオンは通信機器の前で、前線との整理にあたっていた。
ベッドの上で、シビルが横になっていた。
金髪が枕に広がり、小さな瞳が、ようやくこちらを見ていた。
そこには普段の遠い視線ではなく、ほんの一瞬だけ、「今ここにいる誰か」としての目があった。
「……なにか、お話して」
その声は、眠る前の子どもが誰かに言うのと変わらなかった。
ただひとつ違うのは――その“お願い”に、過去も未来も、夢と記録のすべてが混ざっていたことだ。
「昔話でいいの?」
シビルは小さく頷いた。
「……眠れないから」
アラヤは一息ついた。
背もたれに寄りかかり、目を閉じ、いくつかの記憶を探った。
どれも誰かの話だった。誰かの昔、誰かの空想。
「じゃあ……『黒い魚が、赤い魚の群れの目玉になる話』はどう?」
シビルは首を振った。
「じゃあ、『ねずみがゼンマイのねずみと本当の友だちになる話』」
また首が横に振られた。
アラヤはため息を吐き、少し黙った。
そして、思い出すように語り始めた。
「じゃあ……
昔あるところに、小さな女の子がいた。
その子はね、時間を好きに使える契約をしたの。
過去に戻ることも、未来を覗くこともできた。
でも、その代わりに――
その子は、自分の名前と、思い出を全部、忘れてしまった。
誰のことが好きだったかわからなくなって、
誰かに優しくされても、それをすぐに忘れてしまう。
そしてその子は、
時間の中でただ一人ぼっちになった。
でも、それでも前に進んだ。
だって……“忘れる”ってことは、時間が進んでる証拠だから」
話が終わったあと、部屋の中にはまた静けさが戻った。
シビルは黙っていた。
それから、ぽつりとだけ言った。
「……つまんない」
アラヤは少しだけ肩を揺らした。
小さく、目に見えないほどの笑みだった。
「……そう。なら次はもっと面白い話を考える」
「……うん……。楽しみ……」
そう呟いて、シビルはまぶたを閉じた。
そのまま、穏やかに眠りについた。
外の川はまだ音を立てていた。
水の上を過去の記憶が流れ、未来の幻が乗っていった。
アラヤは立ち上がり、ランタンの灯りを指先で絞った。
光が細くなる。
闇がその分だけ部屋を取り戻していく。




