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4:河を渡って木立を抜けて、お姫様を護送します

雨が止んだ直後だった。

湿気を含んだ土と油の匂いが焚き火の煙と混ざり、

それを嗅ぐたびに胃の奥で何かが逆流しそうになった。


キャンプの中心に据えられた木製のベンチに、アラヤは腰を下ろしていた。

夜風は湿っていたが、少しだけ火の匂いを運んでくる。

傍らのランタンが、周囲を丸く照らし、赤くくすぶる炎の輪郭を揺らしていた。


その隣に、シビル・カーペンターが座っていた。

金髪の少女は、両手でブリキのマグカップを抱え、じっと中身を見つめていた。

目線は落ち、口元には動きがなかった。表情があるかないか、というよりも、それが最初から設計されていない顔のように見えた。


アラヤは、無言のままハンディラジオのスイッチをひねる。

ノイズ混じりの音が空間に満ち、数秒後、人工的な女の声が流れ出す。


「……明日の午前までは降水確率が33パーセント、予想降水量は10ミリです。正午から短時間に強い雨が降る模様です。最高気温は27度、最低気温は20度となっています。気圧は9時から0時までが1010ミリバール、正午より999ミリバールとなり……」


天気予報のように聞こえるそれは、実際には諜報任務用の乱数放送だった。

アラヤは耳を傾け、膝の上のメモ帳に数字とキーワードを書き取っていく。


シビルは反応しなかった。

マグの表面に映る灯りを、ただ無言で見つめていた。





その少し離れた場所。焚き火の前で、ドゥオンとヴァンが言葉を交わしていた。

ドゥオンは手にした煙草を火も点けずに弄びながら、うつむいていた。


「……ああいうことは、この国ではよくある」

彼の声は静かで、だが苦みが染みついていた。

「だから、俺たちはこうして革命をやってるんだ。理想じゃなくて、現実への怒りでな」


ヴァンは火を見つめながら、短く返す。


「でもな。積んでたんだ。死体を。用途も不明なまま」


火の粉がひとつ、空に舞い上がる。

ドゥオンは煙草をくるくると指で転がしたのち、軽く力を入れてそれを折った。


「それも、珍しい話じゃない。売る前に殺せば、在庫の管理は楽になる。動かないし逃げない。市場価格にも響かない」

一拍、置いて続ける。

「……俺たちのやり方とは、違うと思いたいけどな」


ヴァンが顔を上げると、焚き火の向こう側で、少年兵たちが火のそばに寄り添うようにして眠っていた。

小柄な身体に大きすぎる銃を抱え、泥まみれのブーツのまま、眠り込んでいる。

夢の中でも、何かと戦っているのか、眉間に皺を寄せている子もいた。


「“違う”ってのは……どう違うんだ」


問いに、ドゥオンは長く息を吐いた。


「あいつらは“売られた”んじゃない。自分で来た。

村が焼かれて、家族が殺されて、生きる場所がなくなって。だから、ここに来たんだ。

俺は……あいつらを兵士にはしているが、それだけじゃ終わらせない。

戦場で死ぬためじゃなくて、戦場から生きて出すために……“人間として”育ててるつもりだ。」


言葉の最後には、かすかな力がこもっていた。

ヴァンは、それ以上何も言わなかった。



やがて、アラヤとラーダが焚き火のそばに歩み寄ってきた。

少女はまだ黙ってベンチにいた。


「助かりました、少佐」

ドゥオンが目を細めて微笑みを浮かべる。

「おかげで、ひとりは人身売買から助けられましたよ」


アラヤは短く頷いた。

「……そうね」


「浮かない顔だな」

ヴァンが煙の向こうから声をかけた。


アラヤは火を見ながら、静かに答える。


「本国から指令が入った。あの少女、シビル・カーペンターを捜索中の対象として指定された。……恐らく、私が任務で追っていた“バナナフィッシュ”は、彼女のことだった」


「バナナフィッシュ……」

ドゥオンが眉を寄せる。


「詳細はまだ伏せられてる。でも彼女はただの難民ではない。――国家が動くほどの何かよ」


ラジオからの声が、アラヤの脳裏にふとよみがえる。

気圧、温度、降水量──その背後に隠されていた暗号文は、確かに言っていた。

“目標「バナナフィッシュ」は金髪の幼女。回収し、速やかに連れ帰れ”。


アラヤは視線を上げた。


「……安全な場所まで護送したい。

何か、いい手はある?」


ドゥオンはすぐに答えた。


「“グリーンハウス”へ連れていきましょう。

我々の本拠地です。そこなら、まだ安全圏内です」


「グリーンハウス……」

アラヤがその名を反芻する。


「それだけ距離があるってことだな」

ヴァンがドゥオンに向き直る。

「それも任務に含めてくれるなら、動くが?」


「当然だ。ルートは踏破済みです。前半はジャングルを抜け、後半は舟艇で川を遡上する。

順調なら、数日で到着します」


「順調なら……な」

ヴァンが肩をすくめる。


「障害は多いわ」

アラヤの声が、火の中に落ちた。

「帝国の特殊部隊も動いてる。王室連合も空爆を強めている。

安全な道なんて、最初からない」


火は静かに揺れていた。

夜風が、その形を変えるたび、誰も口を開かずにいた。





翌朝、密林は灰色に霞んでいた。

朝霧というには重く、息が喉に絡みつくような湿気が、兵士たちの身体をじわりと濡らしていた。

だが、彼らは黙っていた。言葉は不要だった。これから踏み込む場所が、ただの森ではないことを、誰もが知っていた。


行軍が始まった。

先頭にはヴァン。迷いのない足取りで、叢と水たまりの縁を踏み分けて進む。

そのすぐ後ろ、アラヤの背にシビル・カーペンターが、専用のハーネスでしっかりと固定されていた。


少女は目を閉じ、揺れにも動じず、ただ眠っているように見えた。

その顔に浮かぶのは無垢でも無表情でもなく、まるで夢の中の地図をなぞるような無構造の静けさだった。


ラーダはアラヤの左を歩き、常に手元の端末で気圧変化と熱源を探知していた。

右から左へ──彼女の視線が移動するたび、まるで見えない電磁線がジャングルを掃引していくかのようだった。


後方では、ドゥオン率いる革命軍の精鋭三十名が警戒を保ちつつ、整然と移動していた。

木々の間に張られた毒草の蔓、足元に仕掛けられた昔日の地雷、そして空中に漂う疫病の胞子。

それらすべてをかいくぐって進む彼らの足音は、死の森に吸われるように沈んでいた。


だが、真の敵は地上にはいなかった。


爆音が、突然、空を割った。


最初は雷のようだった。

だがすぐに、それが人工の、規則正しく殺すための音であることが知れた。


「畜生!“ローリング・ストーンズ”だ!」

ヴァンが上空の爆撃機を見て叫ぶ。


「“ローリング・ストーンズ”って?」


「王室連合の空爆作戦だ。ここ数ヶ月ずっとやられてる」


アラヤの問いにドゥオンが答える。


艦載機の編隊が雲を裂き、翼の先に陽光を反射させながら斜めに降下してきた。

機体の腹から落とされた焼夷弾と爆薬が、空中でミックスされながら1平方キロごとに森をえぐっていく。


木々が裂けた。地面が火を噴いた。

アラヤのローブが一瞬で焦げ、背に括り付けられたシビルの髪が熱にあおられる。


「全隊、右へ!落下点回避!ラーダ、巻き込みラインの予測を出して!」

アラヤの声が走った。


ラーダは素早く応え、進路を再補正した。

ヴァンが怒声をあげた。


「くそったれ、連合が早すぎたぞ!逃げるぞ、バラけるな!」


森が焼け、煙が覆い、空気が重くなる。

一歩ごとに地面が変わり、足元の感覚さえ曖昧になっていく。


進路は右へ、それから左へ、そしてまた南へ。


木々の隙間をすり抜け、倒木を乗り越え、焼けた幹に手をかけながら進む。

どこかで誰かが呻き声をあげた。だが振り向くことはできなかった。


数分後、森が切れた。


視界が突然、開ける。

焼け焦げた丘陵地。かつて陣地として使われた形跡が残る、放棄された高地陣地帯。


瓦礫と焦土の斜面には、崩れかけた塹壕が交差していた。

かつて誰かが戦い、誰かがここで死んだ場所。


ドゥオンが短く言った。


「ここを越えれば、川へ出られる。ボートが待ってる」


誰も頷かなかった。すぐに、その理由が現れたからだ。


丘の頂上付近に、八人の人影が立っていた。


直立不動。まるで時間を止めていたかのように、そこにいた。


彼らは熱帯の密林にまるで似つかわしくない詰襟の黒い軍服を着ていた。

胸に階級章も国旗もない。だが全員が抱えるようにして持っていたのは――柱時計。


そして、その顔は全員、白塗りだった。


白粉を厚く塗り、表情を消した顔。

動かぬ視線と、仮面のような静けさ。


その姿は、兵士ではなかった。

舞台に立つ演者のようであり、同時に、死神の一団のようでもあった。


ジャングルの熱気が、彼らだけを避けているように感じられた。


一瞬の沈黙。

アラヤがわずかに身体を傾け、シビルの顔を確認する。

少女は何も言わず、丘の頂を見ていた。


遠くでまた爆撃の音が響いた。

それでも八人の姿は微動だにしなかった。


彼らの時計だけが、

チチ……チチ……と

規則正しく時間を刻んでいた。


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