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1:記録改竄系スパイ転校生ですが、生徒会長がチェスで勧誘してきて嫌な予感しかしません

霧が出ていた。


 高原の朝は、街よりひと足遅く春を迎える。

 古びた地方列車が音もなく止まり、静かなドアの開閉音が空気に溶けた。


 ホームに降り立った少女の姿に、誰も目を向けない。

 制服は正規生徒用と同型。だが、どこか“触れてはいけないもの”のように、空気の輪郭がずれていた。


アラヤは立ち止まり、遠くに見える学園都市を見つめた。

山肌に刻まれた整然とした構造。巨大な校舎棟と、尖塔のようにそびえる時計塔。その下で、鎮星学園は静かに息づいていた。




 数日前、ヴェルディアでの任務を終えた彼女のハンディラジオに、砂嵐混じりの暗号放送が流れ込んできた。

「第72深査隊員向け、本日の課題は物理学基礎。ページ16の5番、32の7番、44の1番……」

一見無意味な数字の羅列。しかし、アラヤの訓練された耳は、その裏に隠された指令を即座に解読していた。

「鎮星学園に潜入せよ。スパイ網『1968』の摘発。実行期限:創設祭当日。」

指令は簡潔だった。東方人民連盟の最高指導者スターリンの現地指導を控えたこの学園で、反革命の芽が蠢いている。彼女の任務は、その芽を摘み、裏切り者の記録を抹消することだった。

アラヤは小さく息を吐き、制服の襟を整えた。ソーニャ・マシュコヴァ――偽造された転入生の名が、彼女をこの盤面に立たせた。



登校バスがロータリーに滑り込む。東方人民連盟の国旗と、赤いスローガン。

 スピーカーから流れるのは、校歌の自動送信。

 金属的な混声合唱が、機械のように規律正しく流れる。


「革命の精神、烈士の血脈……」

 生徒たちが一糸乱れず、行進しながら校門をくぐる。

 整列。点呼。瞳には何の色も宿らない。まるで訓練された兵器。


見上げると、1枚の肖像画が生徒全員を睥睨するようにそびえている。

東方人民連盟の最高指導者、7代目スターリン。白い髪に赤い瞳。アルビノのような肌をした、10歳程度の少年の鋭い眼差しの表情。


肖像画を眺めていると、横に1人の教官が立つ。

「鎮星高等党校附属学園へようこそ、転入生同志」

教官は口元だけで笑った。


「今日から君も、“選ばれた血統”の一員だ。

 期待しているよ、“東部第七連隊出身の名家”の娘としては、な」

 アラヤは目を細めた。

 その“設定”は、2週間前に偽造されたばかりの経歴だった。

転入生ソーニャ・マシュコヴァ14歳。革命近衛師団の一画である東部第七連隊の連隊長の娘という経歴は、この学園に転入するには充分な「出身成分」であった。


広場に集まった全校生徒。

 整然とした黒髪、濃いえんじ色の制服、紅の徽章。

 ステージには、生徒会の面々が整列していた。


 一人、中央に立つのは――彼だった。


 ユリウス・ペトロニウス。


 眼鏡の奥で瞳が光る。軍服風の学園制服。

 その腕のカフスボタンには、逆三角形の白いウサギが光っていた。

 アラヤは、そのボタンに一瞬だけ、視線を釘付けにされた。


「同志諸君。今日、我らの革命の灯は、新たな血を迎え入れる」

 ユリウスの声は冷たく、それでいて不思議な熱を孕んでいた。

 空気が張り詰め、アラヤの隣の生徒の喉が小さく鳴る。


「歴史は記録されるものではない。我らはそれを、書き換える者である。

 記憶とは、革命の最小単位だ。忘却こそが反逆の証左であり、記憶こそが忠誠の証だ――」

 アラヤはその声を、静かに聞いていた。

 その耳は、音の振動だけでなく、空気の流れや言葉の密度すら記録している。


ユリウスは一歩、前へ出た。


「この学園は、ただの教育機関ではない。

 我らの記憶を“純化”するための、実験場だ。

 忘却すべき過去は、処理される。残すべき未来は、今ここで造られる――」

 そして、彼は右手を胸に当てて、言った。

「革命の白い炎に、誓って」

 生徒たちが一斉に拳を掲げる。

 その動作は、軍隊のように完璧だった。



 8時の鐘が鳴ると同時に、鎮星学園の一日は始まる。


 アラヤは教室の最後列、窓際に座っていた。

 壁の正面には巨大な端末スクリーンがあり、そこに学習の資料としての地図が浮かぶ。


「人民歴史基礎課を開始します。今日の単元は“帝国主義陣営の解体と、世界の五極化”についてです」


 抑揚のない教官の声が教室に響き渡る。

 生徒たちは一糸乱れずに端末を立ち上げ、授業内容を同期する。


「今から200年ほど前、いわゆる“中継戦争”を経て、世界は五大陣営に再編されました。すなわち――」


 スクリーンに円形の世界地図が表示され、五つのブロックが赤・青・金・灰・黒に塗り分けられる。


「東方人民連盟(我らが祖国)/「帝国」/「王室連合」/「企業連邦」/「皇国」


 そのすべての上に、赤く輝く文字が重なる。


「我らが“東方人民連盟”のみが、正統なる“記憶の継承者”である」


 アラヤは何気なく手元の端末に視線を落としながら、教師の言葉を半分だけ耳に留めていた。

 情報は記録されている。感情は、それを判断する必要があるときまで保留だ。


「では、次の問い。我が党と我が人民の偉大なる指導者、輝ける人民主義の最高尊厳――第7代“ユーリ・イオシフォヴィチ・スターリン”同志の偉業を三つ挙げなさい」


 その声に、生徒の手が一斉に動く。

 アラヤの視線が、画面を通してその“答え”を読み取る。


「・全人民記録化政策の達成」

「・全プロレタリアート解放計画による人民主義の確立」

「・“愛しき父なる影”の名で、人民の記憶を再統合」


 まるで宗教の教義のように、生徒たちはその言葉を復唱した。


「彼の存在は、正確な記録の象徴であり、“永遠の革命”という概念の理想化された帰結です。

 我らは、記録された父の声を聞き、祖父の記憶に帰依し、そして今、永遠の革命の担い手たるスターリン同志の指導によって、過去を訂正するのです」


(スターリン。記録の象徴。……“過去の監視者”か)


 アラヤは一瞬だけ思考を巡らせ、教室のスクリーンの上に飾られる肖像画を見る。

 肖像画に描かれたスターリンの赤い目が光っていた。


 



 2限が終わると、外に出て体力測定が行われた。


 この学園では、日課として週に二度、生徒の身体スペックを数値化・記録し、兵員適性指数に反映する制度がある。


 広場に整列した生徒たち。人工芝のグラウンド。雨上がりの空に雲がたなびく。


「次、走り幅跳び。女子から」


 電子計測装置が起動し、1人ずつ番号で呼び出されていく。

 アラヤの順番が来る。


 教官がタブレットで彼女の情報を確認しながら、眉をひそめた。


「転入生。ソーニャ・マシュコヴァ。東部第七連隊系……?」


「はい」


 アラヤは答え、スニーカーを芝に滑らせて踏み切りラインに立った。

 周囲の女子生徒たちの視線が向く。


「……細いのに、大丈夫?」


「記録だけは良さそうだけど」


 ささやく声が聞こえる。


 助走。

 わずかに膝を沈ませ――


 跳躍。


 風の中で、体が一瞬、空に浮く。

 彼女の影が人工芝の上を滑り、予想以上の距離で着地。


「2メートル43。標準女子値より41センチ超過。記録として登録」


 周囲がざわめいた。


「えっ……嘘でしょ」


「体力班所属か何か?」


 アラヤは何も言わず、髪を払って列に戻る。


 その横を通りかかった副会長の少女――アイナ・グレバが、ちらと彼女を見る。


「……“東部系”って、ああいうのばかりなの?」


 皮肉と試すような目。

 だがアラヤは微笑すらせず、ただ首をわずかに傾けた。


「……どうでしょう。生き残りか、出来損ないかのどちらかでは?」


 アイナがふっと鼻で笑い、視線を外す。




 午前中の授業と測定が終わるころには、アラヤ――この学園ではソーニャ・マシュコヴァ――の名前はすでに“転入してきた異質な生徒”として、一部の記録に刻まれつつあった。


 だが彼女の本当の任務――この学園に仕掛けられたスパイ網の痕跡を探すことは、まだ何も始まっていなかった。



 放課後、学園の中庭では新入生歓迎の集いが開かれていた。

 夕方の光がレンガ敷きの広場を金色に照らし、吹奏楽部の軽い演奏が流れていた。


 掲示板には各部活動のブースが並び、生徒たちは形式的にパンフレットを受け取っては、素通りしていく。

 その光景も、すべてが“教育映像のように整いすぎている”とアラヤは思った。


 彼女はひとまず、中央広場をゆっくりと一周した。

 その目が止まったのは、一枚の白と黒の盤面だった。


 チェス盤。


 ブースのひとつに、誰も座っていない対局席がぽつんと置かれている。

 生徒たちはなぜかそこを避けて通るようにしていた。


 そのチェス盤の向かいに、彼がいた。


「やあ、転入生」


 ユリウス・ペトロニウス。生徒会長。チェス部部長。

 そして、“白うさぎ”のカフスボタンに着けた少年。同じ制服でありながら、その風格は洒脱さを帯びている。


 彼は微笑んだまま、盤面を見つめている。


「気になってるんだろう? やってみるかい?」


「……どちらを持てば?」


「好きに。僕はどちらでも」


 アラヤは無言で、黒の駒に手を伸ばした。



 開始の合図もないまま、対局は始まった。

 周囲には他の生徒が数人遠巻きに立っていたが、誰も口を出さない。


 初手はオーソドックスなe4。

 ユリウスの指運びは軽やかで、それでいて隙がない。


(速い……でも、見せてる。これは“試している”打ち方)


 アラヤは即座にそれを読み取り、自らの指し筋を修正する。

 ただのデータではなく、彼女は“勝つため”に読む。記憶ではなく、直感で。


「あの転入生、同志ユリウス相手になかなかやるな」

「いや、そう長くは持つまい」

「ユリウス先輩!頑張ってください!」

次第に観客の生徒が集まり、囃し立て始める。


 数手先の局面で、ユリウスがふと口を開いた。

「チェスは記録のゲームだと思う?」

「いいえ」

「では、君は?」

「記録の再生ではなく、“選択肢の破壊”」


 ユリウスの目がわずかに細くなった。

「面白い。じゃあ君は、最初から負ける手を“削る”ために指す派か」

「違う。勝ち筋を“唯一の解”にする」

「……革命的だな」


 対局は続く。お互いの攻防に周囲は息をのみ始める。

 アラヤは数手後、わざと自分のルークを中央に差し出す。

 ユリウスはそれを読んだうえで、敢えて取る。


 (……誘導完了)


 だが次の一手で、アラヤはチェックメイトを外す。

 ユリウスの目が一瞬だけ驚きの色を浮かべたが、すぐにそれを笑みに変えた。


「……ああ、君は“とてもチェスがうまい”」


「ありがとうございます」


「君のことは記録しておこう。何という名前だ?」

「ソーニャ、ソーニャ・マシュコヴァ」

 アラヤは立ち上がった。

「あなたが私を誘導していたのと同じことを、しただけです」



 対局を終えたあと、アラヤが立ち去ろうとしたとき。

 ユリウスは小さな封筒を差し出した。


「ソーニャ君、今夜の予定は?」


「……どうでしょう。まだ考え中です」


「なら、是非。これは、チェス部の“夜会”の招待状だ。

 部員以外は通常参加できない。けれど、君はもう、十分に“盤の上の人間”だと思う」


 封筒には、銀の蝋封が押されていた。

 封印の模様は――カフスボタンと同じウサギ。


 アラヤはそれを見つめ、指先で軽く受け取った。


「……興味がわけば、またいずれ」

「君が来てくれると、盤面が面白くなる」


 そう言って、ユリウスは再びチェス盤の前に座りなおした。

 まるで、世界のすべてがこの盤面から始まるとでも言うように。

 空には、夜の気配が漂い始めていた。

「まさかチェスから情報戦始めるとはね。こっちの“転校初日チュートリアル”が既に裏盤面って、どうなのよ」

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