3:深夜のピクニックには無垢なお姫様がいました
午前2時05分。
如楠州南部、ラムク村北東。
熱帯の夜は、地を這う霧と沈黙に包まれていた。
密林を滑るように進む黒装束の男たちは、まるで大地が生んだ影のようだった。
迷彩も標章もない、ただ黒一色の戦装束に身を包み、40名の部隊が、泥と葉を巻き上げずに斜面を下る。
先頭を行くヴァンの呼吸は、驚くほど浅く、穏やかだった。
戦いが始まる前の一瞬だけ訪れる、この“世界が止まったような時間”を、彼は好んでいた。
その背後、少し高台に伏せたアラヤは、ゴーグル越しに帝国の火点をひとつずつ確認していた。
焦点を合わせるごとに、敵の影が微かに熱を帯びて揺れる。
耳に挿した通信ユニットが、わずかにノイズを吐き、直後、ラーダの声が沈み込むように届いた。
「火点6つ。主要弾薬庫は北東コンテナ。照準照合、完了。
ヴァンさん、突入まであと……60秒。目標確認、補正なし」
アラヤはわずかに唇を引き結び、頷いた。見えないが、ラーダは今、上空にいる。
変形機構を稼働させ、軽量戦闘機として空を裂いて飛ぶ“彼女”の瞳は、敵の視線を逆照射し、地上の戦況をすべて逆算していた。
その情報を、ヴァンは一言も返さず受け取った。
左手の指先が動いた。黒い影が連動し、斜面の木々の間に一瞬の硬直が走る。
誰も声を出さなかった。命令は、すでに行き届いていた。
闇の奥で、何かが小さく割れるような音がした。
そして、夜が砕けた。
消音銃の閃光が、葉の裏に宿った露を震わせ、刃が空気を裂いた。
切断される首筋、内圧で破裂する肺、口を開く前に崩れる兵士。
それは戦闘というより、記録されない殺戮だった。
発砲音も悲鳴もほとんど上がらない。あるのは、風に混じる血のにおいと、焦げた金属音だけ。
ひとつ、ふたつ、火点が沈黙するごとに、斜面の下に広がる野営地の灯りがひとつ、またひとつと潰れていく。
北東のコンテナに仕掛けられた爆薬が、予定されたタイミングで誘爆する。
赤黒い光の柱が、一瞬だけジャングルの空を染め、すぐに闇へ吸い込まれた。
夜は、沈黙のうちに崩れた。
斜面の下で火薬庫が爆ぜ、地面を走る震動が靴底を揺らす。
光と衝撃が夜の密林をかき乱すなか、その時だった。
丘の向こう、エンジンの唸りが闇を裂いた。
ライトを消した一台の車両が、爆炎の隙間をすり抜けるように逃げ出す。
それは、防弾処理だけ施された中型の四輪駆動車。装甲はないが、足は速い。
タイヤが泥濘をはじき、蛇のように森の蛇行道を滑っていく。
ヴァンの眼が、それを捉えて鋭く光った。
「クソッ、逃げやがった!」
彼の声に応じるように、アラヤはすでに無言で背後の闇を見た。
そこに──飛来してくるラーダの白い光があった。
翼を折り畳むように変形しながら、ラーダがアラヤの背後に着地する。
「了解。ワープアンドスラッシュ、行くわよ」
アラヤはそのまま跳ねるようにラーダの懐に飛び込み、
機体が再び滑空態勢に入り、夜空へ舞い上がる。
ヴァンは手信号で部下を残し、別ルートからジープに飛び乗った。
泥道には、逃走車のヘッドライトの残像が浮かび、そして消える。
アラヤとラーダは上空から、ヴァンは下道から、その光の軌跡を追った。
「左へ切ったわ。2時方向、12メートル先で小川越え」
ラーダの報告にアラヤが照準を合わせ、機体のキャノピーから拳銃を突き出す。
発砲の反動が、空気を断ち切るように手首を震わせた。
下では、ヴァンのジープが急旋回しながら泥道を駆け抜ける。
助手席のショットガンが、車窓越しに吠えた。
散弾が装甲の薄い側面を打ち、スパークが跳ねる。
「もう少し……!」
ラーダが高度を落とし、アラヤが狙いをつけた瞬間、
逃走車のタイヤが段差に乗り上げ、バランスを失う。
車体は片輪を浮かせたまま横転し、土煙を巻き上げて転がった。
静寂。
しばしののち、砂煙の中に、ひしゃげた金属の姿が現れた。
ラーダが着地し、ヴァンの車も遅れて到着する。
アラヤは無言でキャノピーから降り、銃を両手で構えた。
彼女の足音と同時に、ヴァンも斜め後ろに構える。
煙の向こう、ひしゃげたドアが半開きになっていた。
そこから漂うのは、鉄分を含んだぬるい匂い――死の気配。
ラーダが素手で分厚いドアをこじ開ける。
内部には2体の男の死体。
ひとりはスーツの男。口元に挟まれたタバコが、首の裂傷から流れた血で濡れていた。
表情は驚愕のまま、何かを言いかけたような唇の形がそのままだった。
もう一人は、背の低い中年男。
粗末な上着の襟元から、皇国系の刺青がのぞいている。歯並びが悪く、目は半開きのまま、光を失っていた。
ラーダが車体のスキャンを始めながら言った。
「皇国人……ね。それもマフィア。輸送係ってとこかしら」
ヴァンは眉をひそめたまま、顔をしかめる。
「なんでこんな所に皇国の奴が?
まさか……ウェットワークにでも駆り出されたのか?」
アラヤは答えず、車内の後部へ身を乗り出す。
その視線が、一点で止まった。
彼女の手が、一瞬だけ震えた。
そこにあったのは、5人の少年少女の遺体。
服装はバラバラ。野良着、制服、ぼろ布。
いずれも10代前半、もしくはそれ以下。
首や手首に拘束の痕跡が残り、胸や腹部に痣や裂傷。
一様に、眠るように死んでいる。
ラーダが吐息とともに報告した。
「全員、搬送中に死亡。
死因は……窒息と外傷の複合。"売る"前だったのね」
アラヤはうつむいたまま、かすかに唇をかむ。
その時だった。車内の中央で、小さな動きがあった。
ライトが差し込んだ先。
金髪の少女が、目を開けていた。
彼女は微動だにせず、天井を見つめている。
誰かが死んだことも、自分が生きていることも、関係がないような目だった。
アラヤは膝をつき、そっと少女の顔に手を伸ばす。
「……名前は?」
返答はない。
ただ、少女の唇がかすかに震え、音にならない言葉が、形になって現れる。
「……また……あの夢……見た……
……真っ赤な海の底で……うさぎが……走ってた……」
ラーダがアラヤを見た。
ヴァンも、言葉を失ったまま沈黙している。
少女の瞳には、
──今この世界には存在しない“記憶の光”が揺れていた。
アラヤは、そっと彼女を抱き上げた。
その身体は驚くほど軽く、壊れてしまいそうなほど静かだった。
だが、確かに胸の奥で、心臓が生きていた。
火薬の匂いが漂う夜の中。
炎と闇と、記録されない死体に囲まれたその場所で。
アラヤの腕に抱かれたひとりの少女だけが、
静かに“未来”を見つめていた。




