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1:バナナフィッシュと密林旅行にうってつけの日です

「村田さぁん!やめてくださいよぉ!」

1人の男がクレーンで吊るされていた。


老帝国鼻国・如楠州のある港町。

夜明け前、空は灰色に沈み、波止場には潮と油と血のにおいが混ざっていた。

港湾クレーン、停泊船、廃倉庫、そこにあるのは国家の影ではなく、個人の暴力の痕跡だけだ。


波止場のコンクリートに足音が響く。

数人の男たち――彼らは如楠人ではなく、皇国の人間――が、沈黙のまま吊るされた男を見上げていた。


クレーンに吊られたその男の顔には腫れと恐怖がこびりついている。


「いくら払えばいいんですか!ちゃんと払いますよ!」


「もういらねぇよ」


眺める男たちの中心に立つ背の低い男が吐き捨てる。


背の低い男は横に立つスーツの男に指示する。


「2、3分くらい沈めてみるか」


スーツの男がクレーンに合図する。


「おい!沈めろ」



スーツの男が、クレーン操縦手に指をすっと動かす。

クレーンがギィ、と音を立てて動き、

吊るされた男の身体がゆっくりと、波の中へ沈められていく。


「村田さぁん!やめてくださいよぉ!」


水泡と絶叫が交じって、やがて港は静寂に包まれる。


背の低い男が水泡を一瞥する。


「何分くらい持つかなぁ」


「多分2分くらいじゃないですかね」


「そろそろ上げるか」


スーツの男がクレーンに合図する。

「おい!上げろ」


吊るされた男が引き上げられる。

ロープが軋み、滴る水がアスファルトを濡らす。

顔色は土色、意識は朦朧としている。


「村田さぁん…やめてくださいよぉ…」

水を吐き、痰のようなものを吐き出しながら言葉にならない叫びを漏らす。


「なんだ生きてるじゃねぇか。もう一回沈めるか」


背の低い男の言葉に、スーツの男が応える。


スーツの男がクレーンに合図する。

「おい!沈めろ」



「村田さぁん!やめてくださいよぉ!」


吊るされた男が再び沈み、波止場が静寂に包まれた。


「それで、うちの組出し抜いて売ろうとしてたってのは?」


「車にあります。結構な代物でしたよ」


スーツの男が背の低い男を近くの車に案内する。




波止場の脇、黒塗りの車の中。


スーツの男と背の低い男が歩み寄り、後部座席のドアを開ける。


車内には4人の少年少女が詰められている。

狭いスペース。全員が痩せている。目を伏せて震えている。


スーツの男はその中の1人――金髪の幼女に手をかける。

まるで商品を扱うように。


「1人は金髪です。本物ですから、相当、値が張ると思います」


背の低い男が鼻で笑いながら応える。

「そうか……大事にしとけよ。上に渡す前に壊すな」

「……心得ています」


金髪の少女――シビル・カーペンターは、他の子どもたちとは違い、

泣きも叫びもしない。


彼女の視線は、ぼんやりと曇ったガラス越しに港の空を見ていた。


そこには、吊るされた男の姿も、皇国の男たちの暴力も映っていない。


彼女の視界にあるのは、

「見えてはいけない未来」

か、あるいは――

「すでに起きた未来」だった。


その瞳に一瞬、クレーンの鉄骨が“骨格”のように反転して重なる。


彼女の脳裏に浮かぶ、名もなき都市の爆発。

雲の裂け目。赤い砂嵐。

言葉にならない「記録」が、彼女の中を流れていた。


静かに、彼女の唇が微かに動く。


「……しろいうさぎ……、逃げた……」




風のない午後だった。

波のないプールの水面に、ひとりの少年の影が浮かんでいた。


年齢、推定10歳。

白磁のような肌。アルビノのように色素の抜けた髪。

瞳だけが、まるで記憶媒体のように深紅に光っていた。


東方人民連盟最高指導者――7代目スターリン。


盛夏の時期、政府高官専用の保養地ヴェイダイカ。

そこにある別荘で高官共々夏季の休養と、重要討議を行うのが、この国家の慣習の一つだった。


浮輪も使わず水面に静かに漂いながら、

スターリンはプールサイドに立つ男の声に耳を傾けていた。


黒縁眼鏡に、濡れることを嫌う質感のスーツ。

手には防水コーティングされた資料ファイル。

その男――内務委員長の声は無機質で、どこか地表の重力を忘れたように軽かった。


「……やはり、“バナナフィッシュ”は如楠州にいると見て間違いありません。

王室連合も帝国も捜索のため現地に人員を送った形跡も確認されています。

この機を逃すと、次のコンタクトの機会がいつになるか…」


プールの水面に、パラパラと蝉の声のような波紋。

それが少年の額に当たり、弾けては戻る。


スターリンは瞼を閉じたまま、静かに言う。


「そうか……」


「如楠州の“正常化”は、今のところ革命政権のナイ・ペレの協力により進行中ですが、

彼が我々の意向を全面的に受け入れるとは限りません。

……何らかの“措置”が必要かと」


「……わかった」

スターリンは水面で身体を反転させ、背浮きからゆっくり起き上がる。


「アラヤを呼んでくれ」


一瞬、眼鏡の男がまばたきする。

軽く首をかしげるようにして――しかし声は変わらない。


「……よろしいのですか? 彼女の負荷蓄積は、すでに運用限界に近いかと」


「構わない」

即答だった。


「……承知しました、同志スターリン」


「ところで、君も泳ぐか?」


眼鏡の男がスターリンを一瞥し、感情のない声で返答する。


「いいえ、部下を待たせていますので」


「そうか」


眼鏡の男がファイルを閉じると、身体を90度傾けるようにして敬礼し、去っていった。


スターリンは一人、しばらく水の中にいた。

水面に、彼の“記憶の輪郭”がにじんでいた。



ヴェイダイカの空はまだ白かった。

蝉は鳴かず、ただ風と波の音だけが響いていた。


アラヤは、プールサイドに静かに立った。


えんじ色の夏季軍服――東方人民連盟女性準士官服のワンピース仕様。

丈は膝上、ボタンはダブル。襟元には赤い星章の刺繍。頭には水色のベレー帽。

完璧な折り目と、風に揺れる髪だけが少女らしさを演出していた。


スターリンはすでにプールから上がっていた。

彼の身体には一糸纏わぬ裸身があるだけで、それは“性”というより、

生物としての匿名性を感じさせる彫像のようなものだった。


アラヤは反射的に視線を逸らした。

それを無視して、少年はデッキチェアに座る。


隣のテーブルには、濡れていない2冊の本。

『素晴らしい新世界』『隷従への道』。

表紙はやや擦れていたが、どちらも未だ“読まれる途中”だった。


スターリンが静かに口を開く。


「如楠州に行ってもらいたい」


如楠州。


かつての老大国・鼻国の南端に位置し、現在は王室連合の信託統治領となっている。そして現在は東方人民連盟が支援する革命政権によって、3つの陣営が激しい熱戦を繰り広げている地。


「如楠州…ですか」


「そうだ。今我々の同志たる革命政権と共に"正常化"を進めている。だが王室連合も帝国も動いていて、事態は混迷を極めているそうだ」


「……承知いたしました。任務の詳細は?」


「“あるもの”が、漂着している」


アラヤのまなじりが微かに動く。


「それは“記録”ですか?」


スターリンは頷かない。

ただ、曖昧な呼吸のまま――


「バナナフィッシュだ」


アラヤの瞳がわずかに細まる。


「コードネームですか?」


「詳細は追って伝えるが、それは“誰か”ではなく“何か”かもしれない。

確保を最優先とし、革命政権、王室連合、帝国いずれにも渡すな。

君の“適性”が必要だ」


横に立つ万能文化女中――ラーダと似た形の侍従兼護衛用のアンドロイドが、静かにファイルを差し出す。


アラヤはそれを受け取り、内容を視線だけで走査する。

視線を戻し、正面の少年を見つめた。


「……なぜ私に?」


スターリンの赤い瞳が、ほんのわずかだけ動いた。


「君は“観測者”だ。

――そして、この任務にはその能力がふさわしい」


アラヤは頷く。


「了解しました。潜入形式は?」


「今回は正規に近い身分を用意する。革命政権への軍事顧問として」


「ならば、公式記録が必要になりますね」


「すでに改竄済みだ。君は“存在していなかった”し、“今初めて記録される”」


アラヤはその言葉を無感情に受け止めた。


「承知しました。同志スターリン」


一歩下がり、姿勢を正して敬礼しようとしたとき――


少年が口を開いた。


「君も泳ぐか?」


アラヤは微かに目を見開き――そのまま、いつもの無表情に戻った。


「……今日は水着を持っていないので」


スターリンはくす、と音もなく笑ったように見えた。

その笑みもまた“記録される”ことはなかった。


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