3:時間停止でも動ける居合って何?
雨だった。
細く、冷たい霧のような雨が、竹林の一本道を覆っていた。
舗装もされていない赤土の路面に、アラヤとラーダの足音が規則的に沈む。
「この先に……協力者?」
アラヤが確認するように言った。
「ええ。“虎の情報屋”……企業連邦経由でこの任務に協力するって聞いてる。皇国に埋め込まれた二重スリーパー」
「車があるわ」
視線の先、雨に濡れた黒い車両が一台、道の端に止まっていた。
その存在は静かすぎた。
エンジン音はなく、窓は曇っていて、運転席のドアが開け放たれている。
アラヤは歩みを止める。
銃に手をかけながら、低く呟く。
「警戒して。雰囲気がおかしい」
そのときだった。
車の影から、ひとりの男が現れた。
藁笠。手にした白い杖。
どこか“農夫”や“巡礼”のように見えるが、その姿には違和感があった。
そして――運転席のドア。
そこから、片腕が垂れていた。
雨に濡れ、血がポタリ……ポタリと地面に落ちていた。
「……遅かったようね」
アラヤは即座に拳銃を引き抜き、男へと照準を合わせた。
「止まりなさい。銃口を向けられても動けるなら、試してみて」
男は返答せず、その顔の輪郭すら笠で隠したまま、ただ静かに杖を地面に突く。
刹那――
「アラヤっ!!」
ラーダの警告が雷鳴のように響いた。
同時に、男の姿が“跳ぶ”。
まるで時間そのものを飛び越えたような速さで、アラヤの眼前まで距離を詰めた。
(……! 居合――!)
アラヤの目が光る。
――時間停止、0.8秒。
全世界が静止した。
雨粒が宙に浮き、竹林の葉が空中で止まる。
男の腕が抜刀動作に入り、刀身が鞘からわずかに覗く。
アラヤは身体をひねって紙一重でかわす。
だが、髪が――数本、ふわりと宙を舞った。
時間が動き出すと同時に、男は一歩後退して距離を取った。
(……間合いを測ってる?)
アラヤの呼吸が静かに乱れる。
そのわずか数秒後。
――第二撃が来る。
(まだインターバル中……間に合わない!)
――時間加速、2秒。
瞳が光る。
アラヤの感覚時間が延びる。
全てが鈍くなる。
雨粒が糸のように落ち、竹の葉が止まるように見える。
だが――
男は、その中で――動いた。
「……!」
驚愕がアラヤの背筋を貫く。
時間加速中の自分の動きに、男はついてきた。
――刀が閃く。
ギィンッ!
拳銃のフレームを使って受け止める。
スライドが変形し、アラヤの手に火花が走る。
ただの刺客じゃない。
「ラーダ、援護を――」
言い終わる前に、男は竹林の奥へと後退した。
アラヤは即座に狙いを定め、トリガーを引く。
パンッ! パンッ! パンッ!
銃声が竹林にこだまし、竹を砕く音が響いた。
だが、命中したのは竹だけだった。
男の姿は、すでに木々の奥に紛れて消えていた。
ラーダが走り寄る。
「……やばい相手。速度も反応も、人間の限界越えてたわ」
アラヤは手の中の歪んだ拳銃を見下ろす。
「私と同じ、“時間操作”に慣れてる。あるいは……それを視ていたことがある」
「どうする?」
「追わない。今は無理。ここは敵地……戦術的撤退を優先」
アラヤは拳銃のスライドを外し、使用不能となった銃を服の内側に隠した。
「協力者は死亡。情報のルートは断たれた。……でも、襲撃者が現れたってことは、私たちの行動はすでに“見られている”」
ラーダがちらりと竹林を見た。
「じゃあ、“あの皇女”も何か知ってたのかもね」
アラヤは頷き、わずかに空を見上げる。
雨はなお降り続き、竹の葉が静かに揺れていた。
無人駅にたどり着いた頃には、雨脚はさらに強くなっていた。
ホームの上に張られたわずかな庇の下、ラーダが足を止める。
「誰もいない。時刻表も錆びて読めない」
「……列車が来るとも限らないわね」
アラヤが呟いたそのとき、庇の端――ベンチの影から低い声がした。
「来るさ、皇国の列車は意外と律儀だ」
男がひとり、座っていた。
濃いカーキのコート、片目を隠す前髪。
タバコをくわえたまま、ライターの火がつかずに困っている様子だった。
アラヤが近づき、口を開く。
「電車の時刻は?」
男はちらりと目を上げて、微笑した。
「その前に、タバコを貸してくれないか」
アラヤは内ポケットから、無地のマッチ箱を取り出して手渡す。
男はそれを受け取り、じっと眺めた。
一見、ただの箱。
だが、内側に微細なプリントコードと、“赤”のマッチ棒が一本だけ混ざっていた。
「……遅かったじゃないか」
「情報屋が殺されてたわ。こっちの動き、漏れてる」
男はタバコに火をつけ、一服してから言う。
「ここは皇国だからな。敵地は色々、勝手が違う」
「この後は基地に潜入、のはずだったけど?」
「もう遅い。戦闘機も、亡命パイロットも――さっき飛んできた輸送機に積まれて、神京へ向かった」
「神京……」
「駐在武官が待ってるとさ。向こうのシナリオが変わったらしい」
ラーダがため息をつく。
「――あの皇女に、まんまと時間稼ぎをさせられたな」
男が目を細める。
「美香子内親王に会ったのか?」
アラヤは短く頷いた。
「ええ。まるで“既にそうなることを知っていた”みたいな顔で、私たちを見てたわ」
男は口元を引き締めた。
「……だとしたら、よほどの事態だ。用心しろ。“未来視”は厄介だ」
「なぜ?」
「“何をしても、未来が変わらない”ってことだからな」
雨が線を引くように降る中、列車の接近を知らせる遠い音が響いた。
――その頃、神京への道
一台の黒塗りの高級車が、山あいの道に静止していた。
雨に濡れた車体は、皇国の紋章をかすかに光らせている。
周囲には数名の憲兵。
そのうちの一人――藁笠を被った男が、車の方へと歩を進めた。
男の名は香行。
白杖を突きながら、車に近づき、ぬかるみに膝をついて跪く。
車の窓が、音もなく下りた。
そこに座っていたのは、天把宮美香子だった。
黒いレースのヴェールを肩から流し、冷たい微笑を浮かべている。
「申し訳ありません。賊を……取り逃がしました」
「まだまだこれからですよ、香行」
香行は深く頭を垂れた。
「……おそらく、魔女です。私の二の太刀すら防がれました」
「でしょうね。でも、あなたの居合いなら、きっと切れますわ」
「お任せください姫様。次は、必ず仕留めます」
美香子は頷いた。
「では、神京に向かってください」
「首都に?」
「ええ。軍が動いています。戦闘機もパイロットも、“中央”に送られました」
「では、私はこれで」
香行が立ち去ろうとしたその時、美香子が呼び止める。
「香行」
彼は再び立ち止まり、耳をこちらに向ける。
「これは忘れないで。……“電話”をかけるかもしれないから、音がしたら、必ず取って」
一瞬の沈黙。
そして香行が静かに返す。
「承知しました」
「――必ずよ。絶対に」
車の窓が静かに閉まり、世界の音が戻ってくる。
雨の音だけが、濡れたアスファルトに踊っていた。




