2:皇国の皇女に罠をかけられたけど、奇妙なお茶会で切り抜けました
――皇国・斗南神社前、11:08
風が潮の香りを運び、参道の石畳に日差しが落ちていた。
観光客の姿はほとんどなく、そこは時間から隔絶されたように静かだった。
「警戒、お願い」
アラヤが短く言うと、ラーダは鳥居手前の広場で周囲の監視に入る。
アラヤはひとり、ゆっくりと石の階段を登る。
デット・ドロップはこの先にある神社に埋められている――指定箇所の暗号にはそう記されていた。
基本的に、諜報活動において最も危険とされるのはエージェント同士が直接対面で会う瞬間。
そうした場で逮捕されるリスクを下げ、安全にやりとりする手段が所謂デッド・ドロップである。
まず、エージェント同士でデッド・ドロップとして何らかのものをやり取りする場所をあらかじめ決めておく。
埋めたエージェントAは指定のポイントに埋めたことを示す印を記し、別のエージェントBはその印を見て埋まっている場所に向かい、中身を掘り出す。
そして指定のポイントの印を消したり、あるいは対価などを置いておく。
こうすることで、エージェント同士が直接対面せずとも情報や物品のやり取りが行える、という訳である。
風が木々を揺らし、枝の影が鳥居の柱にかかっている。
鳥居――東方人民連盟では禁忌とされる“前時代的記号”。
国家宗教の象徴として排除された構造物。アラヤにとっては“目にしてはならない記憶の遺物”だった。
(……物体としてはただの門。でも、“内”と“外”を区切る記憶の構造がある。……なるほど、“記録の境界”ね)
彼女はふと、足を止めた。
鳥居の下を、通れない。
足が前に進まなかった。というより、“通過できない”という拒絶感があった。
(これは……結界? でも、魔術反応はない)
足元に、誰かの気配がした。
「……こんにちは」
白いワンピースに身を包んだ、見慣れぬ少女が立っていた。
年のころは13、いや、アラヤと同じくらい。
皇国式の制服ではないが、周囲に溶け込んでいる。
不思議な気配の持ち主だった。
「くぐれないんですね」
少女はそう言って、鳥居の柱にそっと手を触れた。
次の瞬間、風が変わった。
鳥居の足元に敷かれた影が薄くなり、アラヤの体がすっと、何かに解放されるように“通過”できる感覚を得た。
アラヤはそのまま一歩、鳥居の内側に踏み出した。
そして、神社本殿が見えた瞬間――
少女が、ふいに振り向く。
その顔には、最初の笑みが浮かんでいた。
「――お待ちしておりました。“アラヤ”殿」
アラヤの瞳が細くなる。
(名前を……知っている?)
背後でラーダの無線が鳴る。
≪周囲に異常なし……ただ、神社の座標が一瞬“測位不能”になったわ。空間タグが揺れてる≫
アラヤは無言で応答しながら、少女を見つめた。
「あなたは……誰?」
「美香子です。天把宮 美香子と申します。あなたならその名を聞けばご存知でしょう?」
――天把宮。この皇国を統べる皇族の一つ。つまり彼女はその皇女。
彼女の声は静かで、はっきりしていた。
だがその目は、確かに“観測している目”だった。
「デッド・ドロップを取りに来られたのでしょう?」
アラヤは、反射的に一歩後ずさった。
(この子、人民武力総局の通信記録まで読んでる?)
少女――美香子は一礼し、手を広げた。
「案内いたします。ですが――」
境内の空気が、突然切り替わったように感じた。
木々のざわめきが止み、周囲の気配が変わる。
(……まずい)
アラヤが気づいた瞬間には、すでに“網”は張られていた。
背後、左右――森の影から、制服姿の皇国憲兵が現れる。
その手には旧式だが、整備の行き届いた自動小銃。
脇には、警官らしき者たちがサーベルを抜いて歩み出てくる。
アラヤは反射的に体の重心を下げかけたが、その瞬間、美香子が静かに一言を発した。
「動かないで。お友達も、まだ外にいますのよ」
そして、参道の石段の上に、連行されてくるラーダの姿が見えた。
両手を後ろに縛られ、何本ものセンサーコードで制御を封じられている。
ラーダは憮然とした顔で、アラヤを見た。
「はいはい、包囲されて拘束されましたー。まったく、バカみたいな数の憲兵。10秒稼げば焼けたのに」
「ラーダ……」
「お連れしただけですわ」
美香子は、やさしい声でそう言った。
「でもご安心くださいませ。私は好戦的ではありません。お茶にお付き合いくだされば、お二人ともすぐにお帰しいたしますわ」
「……お茶?」
「ええ。神社の奥に、こぢんまりとした茶室がございます。もしご武装を解いてくださるなら、そちらで」
アラヤが警戒を強めると、美香子はにっこりと笑って言った。
「私はこの身ひとつですわ。なんでしたら、裸になってもよろしいですよ。無論茶室の中で、貴方だけに、ですけど」
「……」
その場の誰もが、一瞬黙った。
ラーダが低く、しかし真剣に言った。
「アラヤ。私は無力化されてる。応戦は不利よ」
「わかってる」
アラヤは短く応じ、ゆっくりとジャケットの内側に手を入れた。
腰、腿、脇、そしてブーツの内側――
次々に、32口径の消音拳銃とナイフが外され、憲兵に手渡される。
最終的に8点の装備が茶室前の木箱に収められた。
茶室は、外見よりもずっと深く、静謐だった。
音が吸い込まれていくような空間。
香の香り。茶釜の湯の音。畳の冷たさ。
そして、美香子がたったひとりで抹茶を点てていた。
その所作は、完璧だった。
研ぎ澄まされていて、どこか軍人めいてすらあった。
アラヤは、正座したまま、口を開いた。
「……なぜ、私の名前を知っているの?」
「もう来ることは、知っていました」
美香子は答えた。
その声音には、何の虚飾もなかった。
「アラヤさん。貴方が来なければ、私が訪ねていったと思います。でもこうして出会えたことは、私にとって幸いです」
「まるで――“すでに起きたこと”のように言うのね」
「だって、そうなのですもの」
美香子は微笑んだ。
だがその微笑には、異様な空白があった。
まるで彼女の中の“現在”が、常に過去形で進行しているような――
(……この女。未来視を――失ってる?)
“見えない未来”を、“見えていた記憶”の残骸で塗り潰している。
アラヤの脳裏を警鐘が走る。
(危険。無自覚に“記録された未来”を再現する。無意識の予言。……これは、ただの皇女じゃない)
美香子はゆっくりと茶を差し出す。
「貴方が賢明なお方で助かりました。例えあの場で強引に包囲を突破されても、神社の結界は抜け出せませんでしたから。……無駄な血が流れずに済んでなによりです」
「……あの鳥居、あなたが?」
「さぁ?どうでしょうね」
抹茶の表面に、ひとつ泡がはじけた。
「でも、あなたは"まだ"何もなさっていませんわね。であれば、何もせずに帰ることもできます。……ご帰国の便も、お手配いたします」
アラヤは一口だけ茶をすする。
(……“許される出口”を用意してきた。仕留める気は――今のところない)
静かに立ち上がりながら、言う。
「何もしないわ。あなたがそう望む限りは」
美香子は、目を伏せて微笑んだ。
「ありがとうございました、アラヤさん。……また、会うこともあるでしょう」
その言葉に、アラヤの目が細くなる。
(“また会う”。未来を語る。確信として。やはり――見えていないが、“過去の未来”を語ってる)
――帰路、神社石段
ラーダはすでに解放されていた。
制御装置は外され、手足のセンサーも正常に作動している。
「どうだった?“お茶会”」
「……魔女の気まぐれ」
「じゃあ、あの皇女……?」
「ええ。“時間を失った預言者”。未来を言葉に織り込む女。思っていたより厄介」
「ちょっと鳥居くぐれなかっただけで、大事になったわね」
「……でも、“何もしてない”って記録に残るのなら、今日はそれでいい」
ラーダが軽く肩をすくめ、空を見上げる。
「早いところ戻ろう。情報屋が待ってる手筈になってる」
石段の下、潮の香りが風に乗って届いてきた。
その香りの奥に、どこか遠く、薄く残る抹茶の香が、まだ残っていた。




