6:空の果てにあった船で、私が私を見つめてました
宇宙船内・乗員モジュール《A-01》。
空が震え、世界が揺れる。
白銀の拘束機体は加速度に飲まれ、機体が軋む音すら、重力で歪んでいく。
アラヤは拘束ベルトに身を委ね、
バイザー越しの視界の中で、発射の感覚を“生の記録”として刻んでいた。
「……すごいな。これが空に殴りかかる感触か」
ラーダの声が低く震える。
「データ回収済み。あと5秒で爆破指令に接続」
「解除できる?」
「当然よ。ただ……この手の“民族兵器”は、単に爆破するだけじゃ済まない。
ちゃんと、“記録を更新”しないと」
アラヤは軽く頷いた。
「やって。記録に“この矢はまだ放たれていない”って、そう書いて」
「了解。記録書き換え開始。名義:ヒルデリカ・ナスト中尉。手順完了──指令爆破、無効化」
警告灯が一つ、虚空に消える。
ラーダの声が再び届く。
「それで? 次はどこへ向かう?」
アラヤはメインエンジン──魔女たちがエンジンに組み込まれた、燃焼コアモジュールの事を想った。
透明な球体の中で、脳幹と脊髄から直接魔術構造体に接続された少女たちが、微かに目を閉じている。
意識があるのかはわからない。
ただ、一人が唇をわずかに震わせていた。
──「たすけて」
アラヤは、誰にも聞こえない声で呟く。
「ごめん。間に合わなかった」
「スパイのあんたが何も謝らなくても…」
「けじめよ。私なりの」
機体が振動し、加速度が限界に近づく。
空は既に、地上の引力を離れようとしていた。
高度122km──成層圏上端。
《ヴァイスフォール》は重力境界の加速段階を完了し、宇宙空間への移行準備に入っていた。
しかし、異常音がモジュール外殻を震わせる。
「悪いニュースだ、アラヤ」
「来たみたいね」
アラヤが言った瞬間、外部センサーが多数の弾道波形を捕捉する。
ラーダの声が即座に低くなる。
「帝国の高高度弾道魔女部隊だ──迎撃陣形展開中。マルクスの増援ね」
「航路に干渉される?」
「される。彼女たちは……“祈り”で飛ぶ」
映像に映ったのは、地表から大気圏上層に放たれる金属光の束。雷撃にも似た輝きの正体は、「重金属製の運動エネルギー弓矢」。
帝国高高度魔女部隊。
生体魔術によって骨密度と肺圧を調整され、魔力粒子加速器と翼状飛行輪を装備した、「飛ぶ魔法兵」ではなく「軌道狙撃兵器」。
姿は人型だが、肩部に熱制御フィンとブースターリングを備え、
マントの代わりに対気抵抗で操舵する制御膜をなびかせる。
弾道飛行用の箒に跨る魔女は強化飛行外骨格と結界術で包まれ、詠唱による「未来予測射撃」を展開している。
その一射ごとが、数トン級の速度増強術式を纏った、空を貫く“神の矢”だった。
「……迎撃方式、まさかこれとはね」
アラヤが低く呟く。
「高エネルギー爆発じゃない。“質量”で撃ち落とすタイプ。
つまり──“ただの矢”ではいられないってことだな、お姫様」
《ヴァイスフォール》打ち上げ後7分42秒、高度138km、速度5.6km/s。
軌道シミュレーションに従って、魔女たちの詠唱弓が自動射出される。
目標座標:ヴァイスフォール、T+00:08、軌道高度142.7km、進行角+17度。
三本の矢が、ほぼ光速近似の空気抵抗ゼロ軌道で撃ち出された。
「接触まで、あと16秒」
だが《ヴァイスフォール》は通常機体ではなかった。
アラヤは目を閉じる。
──時間加速、発動。
「ラーダ、加速点指定。射角12.7秒前へ“突き抜けて”」
「合点だ」
機体の内部魔術構造が青く煌めく。
瞬間的な“時間加速”が発動し、機体は記録速度を突破して空間を“先に走る”。
重金属の矢が、機体の“通るはずだった地点”を砕きながら、真空を裂いていく。
帝国魔女の一人が詠唱を切り替える。
視界に映る《ヴァイスフォール》の位置に、自動補正型の“観測魔力”がロックオンされる。
彼女の弓は空を撓めるようにして放たれ、「観測対象の未来座標」に向かって放たれる。
「来るぞ。今度の矢は“私たちの位置”じゃなく、“未来そのもの”を狙ってる」
「予測されている未来は、改竄するしかない」
──時間逆行。
アラヤの操作に応じて、ヴァイスフォールは0.7秒だけ“過去の自分”に逆行する。
矢が貫いたのは、未来に存在するはずだった軌道。
だがそこにはもう、“今のヴァイスフォール”はいない。
迎撃魔女たちの最後の一射。
三連装の重金属矢が、空間位相そのものを遷移しながら接近する。
通常の物理演算も通じない、まさに“神の記録”に刻まれた矢。
「こりゃ避けられない。動きが時間ですらない……!」
「じゃあ、時間を止めてみるわ」
アラヤの虹彩が光る。
──時間停止。
周囲すべての“時間”が一時的に固定される。
重金属の矢が進む軌道すら、一時的に“記録不能”にされる。
その停止した軌道の中を、アラヤとラーダの操作する《ヴァイスフォール》が、“記録されないまま”すり抜ける。
「通過完了」
「全弾回避。観測圏外へ離脱する」
高度203km、主推進モジュール分離完了。
閃光とともに、機体後部の接合部から音もなく白煙が散った。
《ヴァイスフォール》乗員モジュールは、自身の惰性と姿勢制御スラスターのみで、なおも上昇を続けていた。
ラーダの声が冷静に響く。
「主機関切り離し完了。残存推進はゼロ。慣性飛行に移行する」
「姿勢制御、手動へ。計画通り、降下目標は東方人民連盟・第六海域、K-9コードエリア」
「風向、地磁気、再突入角度──全て調整済み。あとは、落ちるだけだ」
アラヤは静かに目を閉じ、指先で座席の端をなぞる。
機内は静寂に包まれ、重力はもはや幻想のように遠ざかっていた。
バイザーを上げる。
目の前には、音のない青があった。
それは地球の蒼ではない。
空の青でもない。
宇宙の“下”に張りついている、記録の皮膜のような色だった。
アラヤは呟く。
「……ここが、“誰の記録にもない空”」
「静かだね」
「音がない分、感情が響く。だから人は空を怖がるのかもしれない」
「随分感傷的ね」
「宇宙って空間にこんな形で行くなんて思ってなかったから。でもこの蒼さは、嫌いじゃない」
だがその時だった。
機体外装のカメラが、“影”をとらえた。
視界の端に、それは浮かんでいた。
巨大な構造物。のっぺりとした鯨のような白い物体。
艦船、だがその規模は超弩級戦艦でも、超大型空母の比でもない。
宇宙船──だが、帝国の技術規格とも人民連盟の設計とも異なる。
外壁に刻まれた文字。
そのひとつは、読めた。
「R.A.I.N.B.O.W.」
だが、もうひとつの文字列──
「Солярис」
アラヤは眉をしかめた。
「……これ、何語?」
ラーダが即答できない。
「構文類似データなし。魔術語でも記録語でも古典言語でもない。“観測不能言語”だ」
艦体はまるで“漂って”いた。
その軌道は自然でもなく、人工でもなく──まるで“そこに在ることが前提”のように、静かに浮かんでいた。
アラヤが窓を見た。
──そこに少女がいた。
バイザー越しではない、肉眼で。
その顔は──自分と同じだった。
無表情のまま、目を合わせる。
何も語らない。
だが、確かにこちらを「知っている目」で見ていた。
アラヤが言葉を発する前に、
その姿は──消えた。
「……ラーダ、今、外に──」
「何?私のカメラには映ってない」
機体が僅かに傾き、大気圏突入の警告が点灯する。
再突入警告音。
乗員モジュールの外壁が赤く染まり、断熱層が火を噛む。
アラヤは未だ目を逸らさず、少女の消えた方向を見ていた。
(私だった。確かに私だった。……でも、あれは一体)
ラーダが言葉を発する。
「エネルギーの逆流なし。大気摩擦、制御圏内。
次の音で、地上が戻ってくる。どうする? 落ち着いたら話すか?」
「いいや。あれは……きっと、私の過去か…あるいは」
「どうする?記録しておくか?」
機体が大気圏を突き破り、炎を纏って落ちていく。
だがその中で、アラヤは一言だけ呟いた。
「……いいえ」
数時間後。
東方人民連盟・第六海域・K-9座標。
暗い海面が揺れ、救難信号を受けた潜水艦が浮上する。
開いたハッチから現れたのは、人民連盟の回収員と、略帽を被った極太眉毛の男──“第二書記”だった。
カプセルのハッチが開かれ、蒸気と共にアラヤとラーダが姿を現す。
アラヤは海軍仕様のジャンパーを羽織り、下には宇宙服が見えていた。
極太眉毛が笑みを浮かべる。
「お帰りなさい。お嬢さん。
記録に載らぬ旅路の成果、きちんと報告してもらいますよ」
アラヤは頷く。
ふと、宇宙服の肩に付けられたエンブレムを見る。
そこには、月に向かって跳ぶ、ロケットに跨った白いうさぎのマークがあった。




