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東方より愛をこめて

逃走の余熱が静まらない車内には、エンジン音と雨音、そして――呼吸音しかなかった。

 助手席に座る男――元東方人民連盟の科学局員・シュレイバーは、ようやく震えが収まりかけた手で、額の汗を拭っていた。


「……助かったのか?」


 誰に向けたとも知れない問いだった。

 アラヤは応えず、ただフロントガラス越しに暗い夜を見つめる。


「私は……逃げたんだ。あの国から。もう二年も前だよ」

 彼は自嘲気味に笑いながら言った。

 その声には、疲労と罪悪感と、わずかな誇りが混じっていた。


「家族には“公務出張”と嘘をついたまま、密航船で海を渡った。

入港した港で拘束されたが、企業連邦のシークレットサービスが“資源価値あり”と判断した。

それで……監視付きの身分で、今日まで生かされてた」


 彼はちらりとアラヤを見たが、少女の横顔は動かなかった。


「今日の取引が済めば、晴れて自由の身だったんだ。

パスポートも身分証も、戸籍も用意されてるって……新しい名前で、どこかの辺境で技術指導でもしながら、生き直せるって、そう……そう言われてたんだ……」


「へえ、自由の身ねぇ」


 後部座席からラーダの声がした。

 片肘をドアにかけて、濡れたメイドドレスの裾を絞りながら、肩をすくめる。

「まるで予備パーツになった旧型AIみたいな話ね。“あんた、もう使わないから解放してあげる”って。あら優しい」

 シュレイバーは、皮肉とも同情ともつかないその声に一瞬困惑する。

「……皮肉、か?」

「うん、ほとんど冗談。でも事実でもあるわよ。

 “自由”ってのは、誰かの許可が必要な時点で幻想だもの」


 アラヤがようやく口を開いた。

 視線は運転席の正面、ハンドルの奥の虚空に向いていた。

「取引は最初から罠だった」

 その言葉に、シュレイバーの背筋がぴんと伸びる。

「あのままあそこにいたら……どうなっていたと思う?」

「……いや……そんな、嘘だ。

 “記憶結晶”を渡せば、取引は完了するって、ちゃんと契約書もあった……」

「彼らは君の首ごと、あの結晶を保存するつもりだった。

 契約書は“文書上の正当性”のための飾り。殺すのは決まってた」

 アラヤの声は平坦だったが、その静けさの中に、微かに怒りが含まれていた。

 ラーダが付け加える。

「でも安心して。少なくとも“死体の始末”は手間が省けた。爆発の方は報道で“事故”になるってさ」

 車内の空気が冷たくなった。

 シュレイバーは唇を噛んだ。目元が濡れていたのは、雨のせいではなかった。



 街の灯がまばらになっていく。

 車は工業区のはずれにある古い海岸道路に出る。

 フェンスも柵も朽ちかけた道。両脇は海と崩れた倉庫、奥には波止場――そして、桟橋。

 アラヤはアクセルをゆるめた。

 上空には、かすかに回転音が聞こえる。


「……来たわね」

「ヘリだな。連中、しつこいね。

 いっそこの車ごと飛べたらラクなのに」


「それは無理。ラーダ、準備して。ここが出口」

 ラーダは深く頷き、静かに両手の関節を鳴らした。

 外では風が強まっていた。

 海からの波が鉄の桟橋を叩き、夜の空に重く響いた。

 逃走の終点が、今そこに迫っていた。





 港湾地区の南端。

 波止場の先にある廃船置き場の一角に作られた封鎖桟橋は、夜の濃霧の中に沈んでいた。


 爆発と追跡を逃れた車は、そこへたどり着く。

 車体は煙を上げ、片側のドアは弾痕で穴だらけだ。


「ここで降りて」


 アラヤが助手席のシュレイバーに静かに告げる。


「あ、ああ……。これで逃げられるんだろう? 船か? まさか航空機……?」


 男が戸惑いの表情を浮かべながら降車する。

 アラヤはギアをニュートラルに入れ、車体を小さく押す。拳銃をホルスターから抜き、マガジンを交換した。


 ラーダが後部から降り、無言で車を押し出す。

 タイヤがギシリと音を立て、車体が傾き、海に落ちていった。

 ザバァン、という水音が夜に吸い込まれる。

「足がないじゃないか。どうするんだ?」


 元科学局員が振り返る。その顔に浮かんでいた希望は、次の瞬間、凍りついた。

 ――アラヤの消音拳銃が、彼の額を正確に狙っていた。

「……えっ……?」

 引き金を引く音すら聞こえない。

 額に、1つの穴。次いで、胸元に2発。

 元科学局員は声もなく、崩れ落ちた。


 アラヤは淡々とその死体からカバンを奪い、中を確認する。

 中には、赤いコアが脈動する記憶結晶――“個人脳野の魔術スキャンコピー”が収められていた。


 それをポケットに収めたアラヤを、ラーダが見下ろして言う。

「そいつを盗んでさえいなければ……命だけは助かったかもしれないけどな。ほんの、かもしれない、だけどね」


 アラヤは、答えない。

 だが次の瞬間――。


 パッと照明が走った。

 桟橋全体にスポットライトが当たる。

 上空には旋回するヘリ。

 背後には、複数の車両と武装兵が待ち構えていた。


「追い詰めたぞ、魔女め! 観念しろ!」


 取引相手の髭男が拡声器越しに叫ぶ。

 ヘリのローター音と雨音で、その声は濁るように響いた。

「武器を捨てて、跪け!」

 アラヤは拳銃を静かに地面に置き、背を向けていたラーダの前に立つ。


「ラーダ。後ろに回って」


 ラーダは無言で彼女の背後に回る。

 アラヤは両手を頭の後ろに当て、膝をついた。


 一瞬の、沈黙。


 敵が数歩、前に出た。


 その瞬間、爆発のように魔力光がはじけた。


 ラーダのボディが一瞬で展開する。

 スカートが羽ばたくように硬化し、胸部が開き、エンジンノズルが展開。

 両腕が主翼に、脚部が推進ユニットに、機械の骨組みと白い装甲がツバメ型超小型戦闘機へと変形する。


「搭乗許可。どうぞお姫様」


 機体の中心が開き、アラヤを包み込む。

 戦闘機は跳ねるように地面を蹴り、上空へ跳躍。

 視認に反応した敵が一斉に発砲――しかし間に合わない。

 戦闘機は急上昇し、月と雲の境界を貫いていく。



「目標高度4000、加速処理開始。魔力結界突破まで8秒」


 コックピットに収まったアラヤは、コンソールを指先でなぞる。

 雨粒がすでに星のように流れていく。

「“私だけ”が、この記録を持ち帰る」

「今さら何を。あんたは最初から、記録に残るような生き方じゃないじゃない」

 アラヤは、黙っていた。

 その瞳だけが、雲の切れ間に覗く月を、じっと見つめていた。



 長距離列車の車内、窓の外に流れる山並み。

 朝靄が青く漂う中、アラヤはえんじ色のジャケット、プリーツスカートの制服に身を包み、座席に座っている。


 机の上にはハンディラジオ。

 砂嵐混じりの音声の後、機械的なニュースが流れる。

「昨日のヴェルディア港湾地区で発生した爆発火災について、企業広報は“物流タンクの電気系統ショートによる事故”との見解を発表――」

 音楽のジングルの後、女性の落ち着いた声が続く。

「通信教育の時間です。第72深査隊員向け、本日の課題は物理学基礎。ページ16の5番、32の7番、44の1番……」


 アラヤは、小さなノートに数字をメモする。

 それは暗号化された指令情報だった。

 外の風景に目をやると、小さな駅のプラットフォームが見える。

 “鎮星学園前”と記された看板。

 登校バス、制服姿の生徒たち、そして遠くにそびえる校舎群。

 アラヤは立ち上がり、ラジオをポケットにしまう。

 ステップに立ち、朝の空気を吸い込む。

 列車が止まり、ドアが開く。

 アラヤは、“次の記録”へと足を踏み出した。


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