4:万能文化女中としてご主人様を変態野郎から救い出します
照明の届かぬ廊下を、重たい足音が進む。
アラヤは転送用のカプセルに拘束されたまま、金属床に打ちつけられる。
彼女の前に現れたのは、白衣に血痕、左目に符号レンズを嵌めた中年の男。
帝国生体研究主任、《エルンスト・ヴァイデンフェルト》。
「ふふ……これはまた、思ったよりも綺麗な標本だ。魔女のくせに」
「君の“記憶”を解剖することになるが、安心しろ。“痛み”はすぐ記録できなくなる」
彼は手袋をはめ、アラヤの頬を軽く叩いた。
「目を覚ましたら、また会おう。“記憶の芯”の中でな」
アラヤの視界が、薬剤の注射と共に暗転していった。
冷気が、皮膚に突き刺さる。
金属のベッドに固定されたアラヤの身体は、拘束帯と管線で仰向けに固定されていた。
腕と脚の関節部には抑制符が貼られ、唯一動くのは視線と、わずかに指先に残された「記憶の気配」だけだった。
視界の端。
操作卓の前で動く白衣の男、エルンスト・ヴァイデンフェルトは、細かく笑っていた。
その笑みは医者のものではなく、技術者のそれ──対象を「存在」ではなく「構造」としてしか見ていない男。
「実に興味深いね。時間の知覚が……完全に分離している。これはもう、肉体よりも“記録そのもの”が異常なんだよ、君は」
彼はアラヤの頬に装置を当て、皮膚電位と記憶構文の差異をスキャンする。
「この感覚…これは“魔女”じゃない。“記憶そのものが自律している”……まるで――方舟のインターフェースだ」
アラヤは目を閉じた。
意識は落ちていない。ひたすらに沈黙を保つ。
「さて……開けようか。君の“記憶の芯”をね」
メスが光り、冷たい金属音が響く。
その刹那。
「博士。助手型端末が到着しました。記録補助のために導入を」
自動扉が開き、ラーダが擬態状態で転がり込む。
一見、旧式の診察補助端末。だがその滑り込みは、明らかに制御を失っていたように見えた。
ガンッ。
「──あっ」
鈍い音とともに、ラーダは壁に衝突。
その場に転がり、起動音が短く震える。
「なんだ、旧式か?……進路制御に異常とは。マルクスの血術のせいだな」
エルンストが舌打ちしながら近づく。
メスを持ったまま、ラーダに手を伸ばした瞬間――閃光弾が弾けた。
「──ッ!!!」
眼前が真白に焼かれる。エルンストの悲鳴が床を跳ねる。
アラヤの視線が一瞬、開放される。同時に彼女の脳内は、時間軸を“割る”ように始動していた。
──時間逆行、-20分。発動終了。
アラヤの能力の一つ――時間逆行は、設定した時間の分だけ「逆の時間」を生きるという能力。
つまり、左手の抑制符が“まだ貼られていない”時刻に戻され、
右手の管が“挿入される寸前”の時刻まで逆行される。
体内に投与された薬剤は、注入された時間にまで逆行した結果、体外から放散していた。
拘束具が軋む。
左手が動く。
右手を体術で解き放つ。
身体が「現在」に復帰する瞬間、アラヤは起き上がり、ベッドの端を蹴って跳躍した。
エルンストが振り返る前に、アラヤの肘が彼の首筋を正確に叩き込む。
白衣が旋回し、エルンストの身体が無音で崩れた。
光と血の匂いが消え、再び静寂。
「逆行能力を使っているみたいだから、急いで来て正解だった」
助手型端末から、万能文化女中の姿に戻ったラーダが呟く。
「助かったわ。自分一人だと切り抜けるのが面倒だった」
「……大丈夫か? 裸じゃないか」
アラヤは背中に落ちた拘束具の痕を撫でながら、静かに答える。
「ひどい変態がいたから」
「それも今やっつけたがな」
数秒の沈黙。
「この後は脱出するか?」
「いいえ」
アラヤはエルンストの白衣を脱がせ、胸のバッジ、IDカード、瞳認証キーを収集する。
鏡の前で身を整えながら、目元の血を指で拭い、
ラーダの方を見ずに、静かに呟いた。
「宇宙飛行士に化けるわ。──ロケットを奪う。」
アラヤは白衣に着替え、担当医官のIDを装着して歩く。
照明の落とされた通路の先。
壁一面に設置された無数のケージ。
中には、白いうさぎたちが静かに並んでいた。
宇宙飛行のための実験動物たちだった。
アラヤはそれらを一瞥し、ターゲットのいる部屋へと急ぐ。
ターゲットは打ち上げ区画の横、《第7医療施術室》であった。
ヒルデリカ・ナスト中尉、28歳。帝国主義精神強化教育の首席卒業者。
選抜宇宙飛行士第1搭乗候補。
彼女は診察室の椅子に腰を下ろし、右腕を差し出していた。
「また採血? もう何本も……」
「最終抗体値の記録だ。発射時、審問に反応されると手遅れになる」
アラヤ──否、医官に偽装した彼女は無言で針を抜く。
採血。
シリンジ内に満ちる、透き通る赤。
──審問用。すなわち、マルクスが発射直前に行う血液審問への通行パス。
(悪いわね、ヒルデリカ。これは、あなたの血を借りるだけ)
静脈麻酔。
数秒後、ヒルデは意識を失い、診察台に静かに横たわる。
アラヤは自身の装備と服装を交換し、胸の記章を差し替える。
彼女はもう、「アラヤ」ではない。
──ヒルデリカ・ナスト、帝国の飛行士。




