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4:名前のない女に背中を預ける時、命より重いものが動き出す

作戦決行は深夜。時間は午後11時を回ったところだった。


地図で言うところの“オペラ座跡地下区画”、ただの工事現場に見えるが、俺たちはそこに横坑起点を仕込んでいた。


空気は冷たい。けど、それ以上に俺の背中を這うものがある。


冷汗だ。理屈じゃない、嗅覚の領域だ。


「……グライム、起爆信号、まだだぞ」


「分かってるさベック。俺だって死にたくはない」


ドワーフの野郎が膝をつきながら、爆薬を“愛撫するように”撫でていた。火薬袋に名前が書いてある。


《カナリア1号》。センスは最低だが、腕は確か。


ヴェスパは通気孔の傍で香を焚いていた。幻術の調整だ。


「魔術詩の韻律、地下で微妙に変調するのよ。合わせなきゃ、センサーが“耳鳴り”を起こすわ」


俺はそのセリフの意味の半分も分からなかったけど、わかったふりで頷いた。


プロってのはそういうもんだ。



フェルドは地図を指でなぞりながら、ひとつ溜息を吐いた。


「ここを水平31メートル。このルートで進めば貸金庫B4直下だ」


「天井の厚みは?」


「43センチのマナ強化石とカナン鋼層。その下が、詩文結界の“皮膜”だ」


「つまり、天井の下に“詩”が張り付いてるってわけか。嫌な話だな」


「ま、下からなら“声をかける”前に触れる。あとはお嬢様の出番さ」


彼は“お嬢様”と口にしたが、その口ぶりには一切の尊敬がなかった。

ある種の……防衛本能だったんだと思う。



エレナ嬢はその間、何も言わず、イヴの背後で静かに息をしていた。


俺はふと訊いた。


「……緊張は?」


「ええ。感覚の85%。ただし反射系統は通常通り。

あとは、“時間の中で冷却する”だけですわ」


「冷却ね。人間の反応じゃねえ」


「……私は“何者でもない”ですもの」


またそれか。

そのセリフ、もう何度目だ?


でも、彼女がそう言うたびに俺は思い出すんだ。

あの、時間の滑り落ちるような感覚。

あのとき、椅子に座らされたまま、俺の世界が逆さにされた瞬間。




午前0時23分、掘削開始。


グライムが最初の衝撃波を入れる。土と岩が粉になる音。

次いで、魔力干渉を最小限に抑えた振動掘削器が始動する。


ヴェスパの幻術が地上の音波センサーを撹乱し、俺は通信ログとRFタグの偽装を維持する。


エレナ嬢は時折、イヴに何か命じていたが、聞き取れない言語だった。

たぶん“時間を削る言葉”だ。


俺にはそれが、何かの祈りに聞こえた。

神にじゃない、“この世界そのもの”に向かってるような……祈り。




午前1時02分。残り掘削距離、1メートル。


そのとき、何かが“引っかかった”。


壁面に仕込まれた霊脈コード。詩の“導管”だ。


触れれば、世界が“誰かに向けて読み上げられる”。

この都市の土壌そのものが、声帯代わりになってしまう。


「見つけたわ。コード網、詩文は古典言語、三重巻き。

これを誤読させれば30秒間の検知遅延を稼げます」


ヴェスパが幻術を織り直す。霊脈に“詩の誤読”をねじ込む。


30秒間、世界の“耳”を騙す——そんな芸当ができるのは、このチームだけだ。


「ベック、準備完了よ。あとはアンタの判断」


俺は深呼吸して言った。


「……よし。地獄の階段、開けようぜ」


誰も笑わなかった。

でも、全員が“覚悟”を共有したのは確かだった。


このあとに待っているのが家宝なのか、現実そのものなのか、

そのときの俺には、まだわからなかった。


──でも、もう一度やれって言われたら?


俺はたぶん、同じ道を選ぶ。

あの女と、あの嘘と、あの静かな記憶のために。



作戦開始から2時間。


地下9メートルの縦坑を掘り終え、いま俺たちは貸金庫真下の封鎖空洞に、あと少しまで迫っていた。


グライムの汗は火薬の匂いを帯び、ヴェスパは幻術の持続に神経を削り、フェルドは地図を噛むように睨んでる。


そして“エレナ・オルロフ”は、何も言わずに立っていた。

……いや、黙ってること自体が、この女の“仕掛け”か。




何かがおかしい。


貸金庫の外壁、カナン鋼の厚みは聞いていた通りだが、その外側の警備が異様に緻密すぎる。


感知結界の頻度、センサーの再帰位相、条約呪文の重ねがけ。

このレベルの守り、単なる“遺産”のためだけとは到底思えない。


俺は静かに、壁に手を当てて呟いた。


「……嬢ちゃん。これ、ただの家宝ってレベルじゃねぇよな?」


「何か問題でも?」


「いや、問題だらけさ。まず第一に、“オルロフ家”なんて貴族、リンドホルムには存在しねぇ。

“没落した”どころか、もとから存在の記録が一件もない。家系図データベースにも、王室婚姻記録にも、な」


 俺は腰のリボルバーを抜き、エレナ嬢の頭に向けた。

 彼女は、表情を変えなかった。が、空気は明らかに凍った。


「第二に、貴族が消音拳銃なんぞ持ち歩くか? しかも太股にな。さっきドレスの裾から見えたぞ」


俺は彼女の瞳を見た。あの銀色の瞳の奥に、ようやく“言葉のない答え”が見えた。


「お前……誰なんだ」




ヴェスパが慌てて割って入る。


「ベック、やめなよ。今ここで揉めたら——」


「これは確認だ。信用は命だ、違うか? あんたらも思ってただろう? こいつ、貴族の演技が上手すぎるって。

貴族ってのはもっと、こう、間延びした沈黙と、やたら重い決断をするんだよ。

こいつは——即断、即応、即射撃。軍人か、スパイか、それとも……」


グライムがタバコを折って呟く。「確かに、発破の許可出すの早すぎたな」


「だから、聞かせてもらおうか。お前は、何者だ?」




沈黙。


彼女は数秒のあいだ、ほんのわずかに目を伏せ——


それから、静かに言った。


「何者でもありませんわ」


言葉には一切の揺らぎがなかった。

まるで、それこそが絶対の真実であるかのように。




「……それで通ると思ってんのかよ」


「ええ。通りますわ。ここでは、“誰かであること”が義務ではありませんもの」


「仕事の重さを考えろ。命張ってんだぞ!」


「だからこそ、“私は誰か”などという慢心は持ちませんわ。

私はただ、目的を遂げるための……通路であり、器であり、時間の一切です」


ヴェスパが小さく息を呑んだ。

フェルドがなぜか、うなずいた。

グライムは頭をかいて、「めんどくせぇ神様かよ」とこぼした。



俺はそれ以上、問い詰めなかった。


なぜって、この女の“無”は、俺の“在る”よりも重かったからだ。


「……ああ、もういい。名前がないなら、仕事で語れ。

開けりゃ信用。失敗すりゃただの詐欺師だ」


エレナ嬢——いや、“何者でもない彼女”は、小さく頷いた。


「お任せくださいませ。地獄の階段、私が最後までご案内いたしますわ」


そして俺たちは、最後の壁を削り始めた。


何が待ってるかなんて知らない。

でもその夜、確かに俺は、

“誰でもない女”に命を預けることを選んだんだ。

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