プロローグ
雨粒が鉄の骨組みに弾け、港の空気に油と鉄の匂いを混ぜていた。
少女は、巨大なガントリークレーンの上から双眼鏡を覗く。黒のスキニーな戦闘服にボディアーマー。腰のホルスターには32口径の消音拳銃。
ここは企業連邦の灰色都市“ヴェルディア”。高層ビルと放置された給水塔、サビたガントリークレーンが林立する港湾区域。
昼間は雑貨や薬物の密輸業者がうろつくこの区域も、夜になると静まり返る。
だが今夜は違う。連邦と裏取引をするため、亡命した科学者が密かに護送されていた。
雨の粒は粒子のように街灯の下で砕け、地面の魔術結界を揺らす。
路地には監視カメラ付きドローンが浮かび、各ポイントに企業傭兵たちの“民間軍魔術師”が配置されている。
「ターゲット補足。間違いない」
女性のような自動合成音声が、耳の内側に流れ込んでくる。双眼鏡の先、濡れた舗装道路に一台の車が滑り込む。その後部座席から、おどおどと降りてくるのは、亡命した元・東方人民連盟の科学局員の男。
彼のカバンには、“記憶結晶”と呼ばれる情報媒体が入っている。
この男と“記憶結晶”こそが今回の任務のターゲットだ。
「了解」
少女――アラヤはそう呟き、ガントリークレーンから闇の中へ身を投げた。
その頃、タンクエリアの正面ゲートには一体の自動人形――万能文化女中が立っていた。
制服は東方の礼装を取り入れた黒と白のミックス。濡れた前髪が能面のような顔に貼りつき、両手は前で静かに組まれている。
その女中は、まっすぐ前を見つめていた。だが――目線の先には何もない“虚空”があった。
「……なんだ? 何見てんだ、あっち行けよ」
近づいた傭兵の一人が声を荒げる。文化女中は何も言わず、そそくさと傘もささず立ち去っていく。
「なんだあの文化女中?」
「どうせ故障だろ。あいつら雨の日はよく固まるからな。処理AIが錆びるんだよ」
男たちは警戒を解いた。
だがその文化女中――ラーダは、すでに正確に見張りの配置と監視ラインを全て計測していた。
無言で通信を送る。
「警戒人数6名。赤外線センサー反応あり。正面からの進入は不適。……アラヤ、どうする?」
「海から行くわ」
冷たい雨が、海の表面に鈍い輪を描いていた。
アラヤは、息を潜めたまま海面に浮かんでいる。
スーツの内側に入り込んだ海水がじわりと体温を奪う。
それでも彼女の表情には、まったく揺らぎがなかった。
最初の見張りは、喫煙所の軒下でコートの襟を立てていた。
彼が煙草に火をつける瞬間、背後から現れた黒影が、風と同じ速さで彼の首筋に刃を押し当てた。
音はなかった。
そのまま静かに崩れ落ちる身体を隠し、アラヤは倉庫裏の死角をなぞるように進む。
ラーダが送ってきたARオーバーレイが視界に浮かぶ。赤く点滅する視界領域。敵の位置。反応パターン。
「あと五人。南側タンク裏にエンジン付きの車両あり。逃走経路としては有効」
「了解。……予定どおり“着火”する」
タンクの裏に設置された小型カメラを回避しながら、アラヤは爆弾ユニットを取り出す。
ボールペンサイズ。タンクの基部に貼りつけ、起爆装置を噛ませる。
そのわずか数メートル先で、取引が始まっていた。
元科学局員――雨に濡れた髪と震える声で、取引相手の髭男に頭を下げていた。
髭男は傘もささず、軍靴で地面を踏みしめながら淡々と言った。
「何も心配はいらん。我が国でやり直せば済むことだ」
「やり直す?」
「人間の生で重要なのは記録より記憶だ。記録は書き換わっても記憶は消えんよ」
「あんたにはわかってないんだ。そもそもプロジェクト1968に必要だったのは……」
男の目は曇り、だが手元のカバンは離さなかった。
アラヤは距離を詰め、車の位置と護衛の死角を計算する。
「待て」
髭男が周囲を見回す。
「妙だな……静かすぎる」
取引相手が顔をしかめた。その瞬間だった。
親指で起爆スイッチを押す。
爆音が、ヴェルディアの夜を切り裂いた。
燃料タンクが火を吹き、オレンジの光が一帯を飲み込む。
地面が震え、警備兵たちが反射的にそちらへ向き直る。
アラヤは即座に跳び出す。
消音拳銃を引き抜き、二発――護衛の頭部に。
三発目で元科学局員の後ろにいた傭兵が吹き飛ぶ。
「だ、誰だ――!?」
男の腕を掴み、車両に引きずり込む。
「乗って。今すぐ」
ギアを叩き、アクセルを踏み込む。タイヤが水を跳ね、滑るように発進した。
バックミラーの中で、爆炎が地面を舐めるように広がる。
アラヤの横で元科学局員がうずくまり、頭を抱える。
「追え!追うんだ!」
髭男が傭兵たちに指示を飛ばす。彼らの銃口が動き出したアラヤの車を狙う。
だが、弾は車には当たらない。
アラヤはハンドルを切り、正面のバリケードを突破してタンクエリアを抜け、道路へと躍り出る。
「ちょ、ちょっと待って、どこへ――」
「黙って伏せて。頭を下げて」
背後から追跡車が数台、砂煙を巻き上げながら迫ってくる。
魔術の放電音や銃弾が車体をかすめ、後部窓が砕けた。
「ちょっと数が多い。ラーダ、援護して」
「はーい、まったく。こっちにも服が濡れるっての、わかってんのかしら?」
アスファルトの闇の中から、一台の無人の黒いバイクが現れる。
追っ手の車に並走し、一瞬車体側面が光る。
直後に追っ手の車の前輪タイヤがバースト。追跡から落伍する。
「はい、一台目パンク。二台目は、ちょっと曲芸いくわよ」
次の車の後部に飛びつき、瞬時にスモークを噴射。視界を奪った隙に急制動させる。
ライトの光が黒いバイクを照らし、ボンネットに滑り込むと――一瞬で変形した。
ラーダの万能文化女中形態。
白と黒のドレス姿、優雅な身のこなし。
だが袖口からナノケーブルが飛び、追手車両のタイヤを貫いた。
ボンネットから飛んだラーダは宙を舞い、破れた後部窓から滑り込んで後部座席に着地する。
「ただいま。お客さんナビは必要?」
「まだいるわ」
アラヤはそう告げて、道路の前方、路肩に止まる車に目をやった。
次の瞬間、魔術が発動する。
車の前方に、“空間が歪むような波紋”が発生。
傭兵魔術師による障壁呪だ。
路面が隆起し、不可視の膜が車の進路を塞ぐ。
「……3秒で間に合う」
アラヤは冷静に時計に目をやる。
その瞳が、一瞬だけ淡く光を帯びた。
――時間加速、0.4倍速。
世界が鈍くなる。
音の粒がゆっくりと鼓膜を打ち、視界のすべてが伸びたゴムのように歪む。
アラヤはハンドルを切り、障壁の縁の“判定外”に車体を滑り込ませた。
そのまま、ギリギリで車体の天井を削りつつ、魔術の波をすり抜ける。
時間が元に戻る。車は勢いを保ったまま、夜の高架へ飛び出した。
背後から追ってきた黒塗りの車両が、数秒遅れて障壁を越える。
アラヤの車と並走するように、右の車線に1台が接近。
ドアが開き、黒服の傭兵が上半身を乗り出す。
彼の手には発動中の“拘束符”――光る鎖の魔術呪符。
「こいつを引きずり下ろせッ!」
傭兵の手が助手席側のドアを掴み、内側にいた元科学局員を強引に引き出そうとする。
半身が車外にさらされ、叫び声が響いた。
「た、助けて、誰かっ――!」
「ラーダ!」
「はいはい」
ラーダが元科学局員の足を掴み、右腕を追っ手に向ける。
その右腕が、機械的にスライドして小型ショットガンが展開される。
「失礼。頭、貸してくれる?」
――引き金。
バシュッ!
圧縮された音とともに、傭兵の頭部が霧散した。
首から上が失われた身体が、ドアごと路面へ投げ出される。
ラーダは助手席側へ滑り込み、半分外に出かけていた元科学局員の腕を掴む。
「こっちおいで、軟弱亡命者くん」
あっという間に助手席へ押し戻すと、両脚を車外に突き出し――
「お返しだ、バカども」
追ってきた車のボンネットに両足で蹴りを入れた。
バギィン!
車の前部が潰れ、軸が曲がる。
そのまま追っ手の車はスピン、路面を回転しながらガードレールに衝突――横転した。
「後ろ、もう一台」
ラーダが振り返った。
残った追跡車が、黒煙を巻き上げて“重力封殺”の術式を投下する。
アラヤたちの車体の上空から、圧縮空間が“押しつぶすように”落ちてくる。
「重力魔術。あの車、積んでるわね。――ラーダ、握って」
「はいはい、助手席代行運転、承りました」
ハンドルをラーダに預け、アラヤは意識を集中した。
その瞳が再び、蒼く点滅する。
――時間停止、0.8秒。
世界が一瞬、凍りつく。
迫る重力塊が空中で“止まり”、雨粒が宙に浮いたまま留まる。
アラヤは後部座席に身を乗り出し、拳銃を構える。
敵車両の魔術増幅装置“術式筒”に、正確に3発。
――解除。
世界が動き出す。
魔術の塊は霧散し、敵車両の屋根から火花が上がった。
「はい、解除完了。次は?」
「下道。撒く」
「りょーかい、避難経路マーク済み。こっちに逸れるわよ」
ラーダがハンドルを切り、車体をわずかに傾けながら脇道へ滑り込む。
ラーダがホログラフィックマップで追跡ドローンのルートを表示し、即座にその死角を縫うように進行。
路面に溜まった雨が跳ね、火花が交差する。
追手は巻いた。だが、上空から再びヘリのローター音。
「上、ヘリがきた」
「なら、終点は海ね。桟橋まで出る」
「アラヤのくせに、よく喋るじゃない」
「うるさい」
「一体、君たちは何者なんだ……?」
元科学局員の問いかけに、アラヤは答えなかった。
ただ一度、微笑を浮かべるだけ。