風追い茶屋と蜜の蔵
一度だけ、あの人が来た日、風の匂いが変わった。 この「風追い茶屋」は、高原の小さな村、セーレのはずれにある。街道を行き交う旅人たちが、ふらりと立ち寄っては、冷たい茶や素朴な菓子を楽しんでいく。高台から吹き抜ける風と、囲炉裏の香り、そして土壁に差す陽の光――そのすべてが私にとっての日常であり、居場所だった。
「サナさん、また干し杏のお菓子作ってくださいね」 「はい、今日は蜜を変えてみるつもりですよ」
お昼過ぎ、顔なじみの羊飼いの娘が、籠を抱えてやって来た。彼女が帰ったあと、私は火を整えながら、新しい杏蜜の仕込みに取り掛かる。山の向こうから運ばれてきた蜂蜜を、干した杏にじっくりしみ込ませるのだ。口にすれば、ほんのりとした酸味と、舌にからむ優しい甘さが広がる。
そんな穏やかな午後だった。
「…すみません、ここは茶屋ですか?」
暖簾が揺れて、低く澄んだ声が入ってきた。振り向けば、薄灰の外套に身を包んだ旅人。まだ若いが、どこかくたびれた雰囲気をまとっている。目元の皺は、笑った記憶よりも、悩んだ時の痕跡だろうか。
「はい、お茶と菓子しかありませんが、それでもよろしければ」 「ぜひ、ひと休みさせてください」
男は背負っていた小さな革の鞄を下ろすと、窓際の席に腰を下ろした。私は茶器を用意しながら、彼の背中をちらりと見る。旅人には見えない。けれど、定まらない風のような気配がある。
「風の音が、よく聴こえる場所ですね」 「ええ、ここでは風が日々違う話をしていくんです」
私は桑茶と、今日仕込んだばかりの杏蜜菓子を載せて、盆を運んだ。男は一口、それを口に含み、目を細めた。
「…懐かしい味です。昔、妹がよく作ってくれた菓子に似ている」 「妹さんと、旅をされていたのですか?」
問いかけに、男は少しだけ目を伏せた。
「…いえ、もうずいぶん前に別れました」
それ以上は聞かなかった。旅人は皆、抱えている過去がある。ここでは、無理にそれをほどく必要もない。ただ、風のように過ぎていく時間を、少しでも穏やかに感じてもらえればいい。
「よろしければ、泊まっていきませんか。部屋は一つだけですが」 「…泊まっても?」
「はい、風が強くなりそうですし。朝には、また違う空気が流れてきますよ」
男は少し考えたあと、こくんと小さく頷いた。その仕草が、風の音に溶け込むようで、私は囲炉裏に薪をひとつ、くべた。
その夜、男――ルカという名だった――は囲炉裏の前で、小さな包みを開いた。そこには、色あせた刺繍の布と、乾いた蜜の壺があった。
「妹が、最後にくれたものです。いつか、この味を探して、また笑える場所に辿り着けたらと…そう思っていたんです」
私はその壺の香りを嗅ぎ、杏蜜と同じ花の香りが混じっていることに気づいた。
「この味、きっと再現できますよ。一緒に作ってみませんか?」
ルカは驚いたように目を見開き、少しだけ、微笑んだ。
風は夜になっても止まず、茶屋の障子がかすかに鳴った。
朝の光が差し込む前に、私は火を起こし、湯を沸かす。眠っていた空気が少しずつ動き出し、木と土の匂いが茶屋の中に満ちていく。この時間が、私は好きだ。昨日の出来事も、今から訪れる客の顔も、まだ色を持たないまま、音だけが静かに存在している。
囲炉裏の脇に干しておいた杏に、布をかけていた手を止めると、奥の部屋からふと人の気配がした。
「おはようございます、ルカさん。よく眠れましたか?」
「ええ。久しぶりに、静かな夜でした」
戸を開けて現れたルカは、旅装の上に私が貸した羽織を羽織っていた。少し大きめだったけれど、それが彼の肩を丸く見せていて、不思議と親しみが湧いた。
「朝食の用意をしますね。甘く煮た雑穀と、木の実のパンを少し」
「手伝わせてください。昨夜、あんな話までしてしまったんですから」
その言葉に、私は微笑む。茶屋に泊まった客が厨房に入ることは、滅多にない。けれど、彼はもうただの旅人ではなかった。蜜の壺を囲炉裏の傍に置き、「妹の味」を探しているという人。その理由がある限り、私はそれを拒む理由が見つけられなかった。
「では…この杏の準備をお願いしてもいいですか?傷んでいるものは外して、蜜をまぶすための小鍋に入れて」
「杏…どれも見事に干されていますね。色がきれいだ」
「山の陽に任せて、ゆっくり乾かしました。焦らせると酸味が残るので」
「焦らせると、酸味…それは人にも言えそうだ」
ルカがぽつりとそう言って、少し笑った。その笑いは短く、けれど昨夜の表情よりも、少しだけあたたかかった。
鍋に湯を注ぎ、干し杏に蜜をかけていく。火加減を弱め、焦げ付かないように木杓子でそっと撫でるように混ぜる。蜜が熱でやわらかくなり、杏の皺の間にじんわりと染み込んでいく様子は、見ていても飽きない。
「昔、妹は料理が苦手で。甘い菓子を作ろうとしても、蜜を焦がしてばかりでした」
「焦がしてばかりでも、贈ってくれたんですね」
「ええ。焦げた味も、いまでは懐かしい」
囲炉裏の火がぱちりと鳴り、しばらく言葉が途切れた。私はその間に、別の小鍋に茶葉と牛乳を注ぎ、煮出し始める。香辛料と合わせてミルクチャイを作ると、朝の冷えを和らげてくれる。
「これも妹さんの記憶にありましたか?」
「…紅茶に蜂蜜を入れてくれたのを思い出します。味は…今、思い出しても曖昧ですが、気持ちは残っている」
「なら、今日の味が新しい記憶になるかもしれませんね」
私はルカの前に、湯気の立つチャイの椀を置いた。彼はそれを両手で包むように持ち上げ、そっとひと口飲む。目を閉じ、息を吐いてから、静かに言った。
「…こういう味だったのかもしれない」
私はなにも言わず、ただ頷いた。味は記憶と一緒に残る。けれど、人がそれを思い出すとき、記憶よりも大切なのは、味の中にある誰かの気配なのだろう。
「今日も、ここにいても?」
「もちろんです。蜜の調整もまだ終わっていませんし」
「では、しばらく…ここで風を聴かせてください」
ルカの目に浮かんだ光は、まだ薄く、けれど確かなものだった。 私は鍋の火を弱めながら、彼とともに過ごす今日の風の話を、静かに待つことにした。
朝の霧が町を包むなか、小さな宿の厨房には甘酸っぱい香りが漂っていた。
火加減を見ながら、私は焦げつかないよう鍋の底をかき混ぜる。ぐつぐつと煮える赤紫の液体は、朝市で仕入れた木苺を煮詰めたものだ。皮を剥き、果肉をすりつぶし、じっくり火を通していく。あとは、シナモンをほんのひとつまみと、レモン果汁を少し。そうすることで、味が引き締まり、甘さに奥行きが出る。
背後からふわりと風が入る音がした。
「おはよう。…って、うわ、いい匂いだな」
カウンターに腰を下ろしたのは、旅人のサユリだった。昨日から泊まっている、黒髪に月色の瞳の娘だ。涼やかな雰囲気の中にも、どこか好奇心旺盛なものが感じられる。
「木苺ソースを煮ているの。パンケーキの仕上げ用よ」
「朝から手間かけてるなあ。そういうの、嫌いじゃないよ」
彼女はにっと笑って、肘をついた。私は少しだけ微笑み返して、パンケーキの生地を取り出した。霧雨がまだ降っている。こんな朝には、ふんわりとした甘いものを出したい。
外の様子を伺いに、窓を少しだけ開けた。町の石畳が雨に濡れ、通りにはまだ誰もいない。濡れた地面が光を反射して、まるで世界がやさしくぼやけているようだった。
「雨の日って、静かで好きなんだ」
サユリが呟いた。
「人が少ないし、音もやわらかくなる」
「わかるわ。空気の粒が大きくなったみたいで、息を吸うのも心地いい」
私はパンケーキを焼き始めながら、彼女の言葉に頷いた。
こうして誰かと静かな朝を共有するのは、久しぶりだった。
「ねえ、ニナって人の話、知ってる?」
突然、サユリが問いかけてきた。フライ返しを握ったまま、私は少し首をかしげる。
「ニナ? この町の人?」
「ううん。違う。…わたしの、姉みたいな人。昔、一緒に旅してたの」
「…旅人仲間?」
サユリは少しだけ微笑んで、首を横に振った。
「そうじゃないけど…うん、まあ、そういうものかな。でも、急にいなくなっちゃってね。気まぐれな人だったから」
彼女の声に、どこか寂しさが滲んでいた。焼き上がったパンケーキを皿に移し、私はあたたかい木苺ソースをたっぷりとかける。
「よかったら、話してくれない?」
「…うん。ありがとう」
サユリは、スプーンを手にとって一口すくった。木苺の甘さが口いっぱいに広がったらしく、目を細める。
「ねえ、こういうの…ニナも好きだったかも」
「その人に、もう一度会いたいの?」
「…うん。でも、わたしのこと、忘れてるかもしれない」
彼女の声が、ほんの少し震えていた。
「忘れてたら、思い出してもらえばいい。こうやって、同じ味を分け合えば…きっと何かは届くと思うわ」
言いながら、私はサユリの瞳を見た。霧雨の中でも、彼女の瞳は、どこか夜の湖のように深かった。
「そうだね…ありがとう、ルシア」
その名前を呼ばれて、私は少しだけ胸が熱くなった。
料理の力は、言葉よりも強く、時に記憶を運ぶ。私がこの宿で、それを信じているように。
その夜、サユリは早めに眠り、私はひとり、厨房に立っていた。木苺のソースがまだ残っていたので、小さな瓶に詰めて棚に置く。
彼女がまた、何かを探す旅に出る日が来たとしても――。
私はこの味を忘れずに、ここで待っている。
霧の朝は過ぎ去り、空はようやく青を取り戻しはじめていた。
宿の庭にあるローズマリーの茂みには、濡れた葉の上に朝露がきらめいている。私はその香りを胸いっぱいに吸い込んで、今日の空気を確認した。
サユリがこの町を発つと聞いたのは、昨日の夜だった。
「もう少しだけ、探しに行くんだ」
そう言って、彼女は静かに笑っていた。
私はその笑顔に、何も言えなかった。ただ、小さな包みを用意した。木苺のソースを瓶詰めにして、焼き菓子を数枚添えて。
朝食の時間、彼女は荷物を整えたリュックを背負って、カウンターに座っていた。
「焼きたてのスコーンにしようか。木苺のソース、たっぷりかけて」
「それは最高の餞別だね」
焼き上がったスコーンは、外はさくさく、中はふんわり。木苺のソースがその熱で少しとろけて、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
サユリはひとくち齧って、頬をほころばせた。
「この味、絶対に忘れない」
「思い出すたびに、ここに帰ってきてくれたら嬉しいわ」
彼女はしばらく黙って、皿の上を見つめていた。
「…ニナが、この味を知ってたらよかったな」
「きっと、見つかるわよ」
私は信じている。それが例え、旅の終わりではなくても。
「ありがとう、ルシア。ここで過ごせてよかった」
そう言って、彼女は私の手を握ってきた。その手は旅人らしく、少しだけ硬く、温かかった。
宿の戸口で見送ると、サユリは軽く手を振って、霧の残る道を歩き出した。足取りは軽く、でも確かだった。
私は手の中の小瓶を見つめた。もう一本、彼女が置いていった瓶。それには、彼女の書いた短いメモが添えられていた。
《いつか、また。次は一緒に作ろうね》
私は笑って、瓶を棚のいちばん奥に置いた。
それは旅の終わりじゃない。
いつかの再会を約束する、小さな灯りだった。
おしまい