もう殴られてひとり泣いていた幼い私ではない
別にね、あなたのことなんて怖くないのよ。もう殴られてひとり泣いていた幼い私ではない。
この家に住んでいる限り、そして母を人質に取られている限り、オーブリーは当主である父に逆らうことができなかった。
けれどキャメロンに対しては違う。オーブリーは長いあいだキャメロンに負けていたわけではない。彼女の味方をする父に屈していたのだ。
……けれどまぁ、歪んだ関係もたぶん今日で終わる。だってこんなふうに晩餐に招かれるなんて、おかしいもの。死刑囚に最後の晩、好きなものを食べさせてやると聞いたことがある。あれと同じよ、きっと。
母のことをどうするか、急いで考えなくてはならないわ。今の療養所から移したいけれど、自分には自由にできるお金がない。
亡き祖父がオーブリー個人に遺してくれたものはある。しかしその信託財産を動かせるのが、二十五歳になってからという条件なのだ。
今二十三歳だから、あと二年もある……ああ、どうしてこのタイミングなのかしら。最後の晩餐に呼ばれるのが、二年後ならばよかったのに!
頭の中であれこれと考えを巡らせながらも、オーブリーは微塵も動揺を見せず、表情を変えなかった。オーブリーは子供の頃から、大人に殴られても人前では涙を見せなかった気丈な女だ――このくらいの芸当はたやすいことである。
その揺るぎなさがキャメロンを退かせた。
……やっと障害物がどいたわ。
オーブリーはせいせいした気分で、彼女のための椅子に腰かけた。
父が話しかけてくる。
「今日はお前の好きなものを用意させた」
「好きなもの、ですか」
「ヒラメと鴨肉。好物だろう」
オーブリーは思わず黙り込んでしまった。……それは母の好物よ。私の好物じゃない。
九歳までは一応、『家族』という体裁は保たれていたような気がしていた。それがブース婦人の登場で変わったのだと。けれど違ったのかもしれない。
――私たちの関係は壊れたのではない。もともと何も存在しなかったのだ。
「もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ」
父が眉根を寄せ注意してくる。
……ああ、もう、嘘でしょう。呻き声が漏れそうになった。
長いあいだ屋根裏部屋に押し込められ、虐待されてきた娘ですけれど、今日は愛人同席の豪華な晩餐にお招きくださり、その上追い出された母が好きだった料理をいただけるのですね、感謝感激でございます――そう言えばいいの?
オーブリーは呆れ果てたものの、口角だけ綺麗に持ち上げて、にっこりと微笑んでみせた。
「――お父様、これでよろしいかしら」
オーブリーの態度は一周回って大変可愛くないものだった。
父が表情を失くしたのを見て、オーブリーは『殴られるのかしら』と考えていた。……これは危険なゲームだわ。気をつけなさい。
父に対する罪悪感からではなく、保身のため、オーブリーは真面目な表情を取り繕い、ナプキンを膝の上に広げた。
「ヒラメと鴨肉は母様の好物料理よ」
小声で呟きを漏らす。父の顔をチラリと見ると、彼は虚を衝かれた顔をしていた。
「……そうだったか。ならば別のものに変えるか?」
「いえ、大丈夫です」
オーブリーは首を横に振ってみせる。何を食べたとしても、美味しく感じる自信がない。
「食後のデザートに苺のシャーベットも用意してある」
「ああ、それは好きだわ」
「それならよかった」
これは一体なんの時間なのだろう。
オーブリーは観念し、『これ以上は耐えがたい』という気持ちで父を見つめた。父もこちらを見返してくる。
そこには温かな感情の交流などなく、ふたりは用心深く見つめ合って、互いの出方を窺っているのだった。
「お父様、ご用件はなんですか」
「まず食事をしてから――」
「いいえ。まず話を」
促すと、父が小さくため息を吐く。
そして驚愕の事実を告げたのだった。