みっちり一年間、私を鍛えてくれないかしら?
「私、いっせーのせ、って言った」
「うん」
「それなのになんで手を離さないの?」
それで離す約束よ。
「君だって離していない」
彼の指摘はもっともだった。もっともなだけに、オーブリーは恨めしく感じた。
夕焼けのように頬を赤く染めているオーブリーを、ナイト辺境伯が気だるげに見おろす。
オーブリーは息を吸おうとして、苦しくなった。
私……彼から『要求があるなら、甘えながら頼んでほしい、猫さんみたいに』と言われたのよね。だけど彼のほうが、気まぐれな猫さんみたい。艶っぽく尻尾を動かして、こちらの気を惹いてくるのに、何を考えているのか分からないミステリアスな流し目で見てくる、綺麗な猫さん。
「――オーブリー、四つ目のお願いは?」
静かな声音――まどろむ朝のように優しくもあり、闇深い夜のように密やかでもある。
彼があまりにも落ち着き払っているので、オーブリーは腹が立ってきた。
「うー……」
オーブリーは奥歯を噛みしめ、彼の頬に当てていた手を、耳たぶのほうにスライドさせた。そうして指でギュウッと、彼の耳を引っ張る。
「馬鹿馬鹿馬鹿、耳がちぎれちゃえ」
「怖いこと言うな」
「いいから、私の頬っぺたから手を離しなさい! 十秒以内に!」
「僕が手を離したら、君もこちらの耳を引っ張るのをやめるのか?」
「そういう交渉嫌い! あなたが手を離すのが先よ」
「まったく、我儘がすぎるぞ、赤毛の猫さん」眉根を寄せる彼。「オーブリー、そっちがその気なら、僕もやるからな」
「何をするっていうのよ」
「こうなったら君の耳を引っ張らせてもらう。長期戦覚悟だ」
「だめ」
「えー、自分だけ好き放題するのは、ズルイと思うなぁ」
「南部の風習で、こんなのがあるの――男性が女性の耳を引っ張ると、罰として、老人百人から太い棒でぶたれまくる」
「嘘つけぇ。南部の老人、どんだけ血気盛んなんだよ」
「あのね、棒は普通のやつじゃなくて、トゲトゲがついているやつだからね! そうされたくなければ、あなたは大人しく――」
――ムニ。
ナイト辺境伯が手をどけるどころか、こちらの頬を両手でムニムニ揉み出した!
「はは、柔らかい」
無邪気に笑うド変態!
その爽やかな笑い方は、『今日は良いお天気ですね』のシチュエーションで出すやつだから! 女性の頬を揉みしだきながら浮かべるたぐいのスマイルじゃないから!
「やだ、何するのよ!」
「さぁ、ほら、僕の耳から手を離すのだ」
「死んでも離すもんですか、って――ふにゃー!」
不意に顎裏を、彼の指腹でチョイチョイと撫でられ、仰天。
――わ、私、本物の猫さんじゃないからー!!!!
ナイト辺境伯がププ……と笑う。
「オーブリーってしっかりしてそうなのに、ほんとお馬鹿だなぁ。それもギリギリアウトなお馬鹿」
「トゲトゲの棒でぶつわよ!」
「はいはい」
ナイト辺境伯がオーブリーの鼻を軽く摘まんでから、やっと手を離した。
……それでね、びっくりなんだけど。
この男、あれだけ好き放題したくせに、手を離す際に少し名残惜しそうな顔をしたのよ!
目ざとくそれに気づいたオーブリーはドン引きしてしまった。
信じられない……まだいたぶり足りないっていうの? ド変態界のキングね!
「ねぇ、ほら、オーブリー」
なぜだか少し困ったように、ナイト辺境伯が促す。
「早く四つ目のお願いを言いなさい」
「う……じ、じゃあ言うわ」
「うん」
何よ、優しい目で見ないでよ! いい人の顔を取り繕ったって、先ほどの蛮行は帳消しにならないから!
オーブリーはようやく彼の耳から手を離し、怒った顔で彼を見上げた。
「――みっちり一年間、私を鍛えてくれないかしら?」
「……は?」
ナイト辺境伯が呆気に取られたようにこちらを見おろしてくる。
「それはどういう意味?」
ふたりの距離感はいまだありえないくらいに近かったが、意思疎通はこのとおり、まったくできていなかった。
「私、物理的に強くなりたい」
オーブリーが両拳をぎゅっと握ってそう告げると、ナイト辺境伯が、
「……ていうか君、現状すでに国一番の荒くれ者だけどね?」
と失礼極まりない呟きを漏らした。
2.オーブリーとナイト辺境伯の出会い(終)




