尊い犠牲が必要
――現在(結婚式当日)より、ふた月前。西部地方、ランス大聖堂。
この教区には、西の守護者であるナイト辺境伯の領も含まれる。ナイト辺境伯は二十六歳の青年で、各地当主の平均年齢を鑑みると、まだ年若い。
ナイト辺境伯の伯父にあたるベン・マーズ子爵は、司教から呼び出しを受け、ランス大聖堂を訪ねていた。
通された会議室の中は薄暗かった。高窓から陽光は射し込んでいるものの、それ以外に光源はない。
テーブルの向こう側には、司教と聖女が並んで着席している。……明かりを点けないのは、聖女の神秘性を保つためだろうか。
「夢見をしました」
聖女の声は細く少女めいていたが、不思議と力があった。あいだにテーブルを挟んでいるのに、一言一句はっきりと聞こえる。
彼女の名前はフェイス・アッシャー。年は十四歳。
男爵家の三女であるフェイスは、二年前に自邸二階の窓から落ちて一度心臓が止まり、その数分後、神の御手により引き戻されたらしい。――以降、彼女は奇跡を起こし続けている。
聖女フェイスが続ける。
「これは宣託であり、未来のビジョンです。『不吉な予感』というような、曖昧な何かではありません」
「宣託……神は私に何を伝えたいのでしょうか」
マーズ子爵の声に戸惑いが混ざる。
聖女フェイスは一拍間を置き、先ほどと同じ平坦な声で続けた。
「ナイト辺境伯が一年後、死にます」
「は……なんですって?」
驚愕。
「いや、しかし……病気か何かで、ですか?」
マーズ子爵は普段滅多に慌てることがない。そんな彼がすっかり動揺していた。
あの甥が簡単に死ぬわけがないと思ったからだ。上手く表現できないのだが、彼は生死を超越しているように見える。
「病気ではありません。事故でもありません」
「そんな、ありえない」
「ナイト辺境伯は一年後、むごたらしい死を迎えます」
「……ありえない」
マーズ子爵はそう繰り返した。馬鹿げている。
「なぜありえないのですか」
「彼は絶対に負けないからです」
「聞きなさい」
聖女フェイスの声音が厳しくなる。
「あなたがすべきことは、まず宣託を信じること。そしてこの最悪な未来を回避するため、すぐに動くことです。今、ナイト辺境伯を失えば、西部地方は陥落する」
「何をすればよろしいのですか」
「尊い犠牲が必要です」
「犠牲……」
呟きを漏らしながら、『その解決策はナイト辺境伯がもっとも忌み嫌いそうなことだ』と考えていた。甥はパッと見こそ、のらりくらりとしているが、実際はとても頑固だ。
「ナイト辺境伯はすぐに花嫁を迎える必要があります。その花嫁が生贄となる」
「花嫁が死ぬのは、結婚してすぐ?」
「一年後の予定ですが、多少前倒しになる可能性はあります」
「一体、誰を迎えろとおっしゃるのですか」
「――フォックス子爵家の娘を」
「フォックス子爵家?」
すぐにはピンとこなかった。力を持っている貴族ならば、名前を聞いた瞬間に顔が浮かぶはず。
ああ、あれか……フォックス子爵……南部の貴族か? やっと記憶のどこかが刺激される。しかしなんということもない――由緒・資産・功績――そのすべてにおいて、なんら秀でたものがないという三流貴族だ。
それともこの重要な局面で名前が挙がったということは、何かあるのか?
「フォックス子爵家の娘が、ナイト辺境伯の代わりに死ぬのですか?」
「ええ。一年後、彼女は辺境伯を生かすために死にます。西部地方はそのおかげで助かる」
では、やるしかない。マーズ子爵は悪人ではないが、かといって、お人好しの善人でもなかった。せねばならぬことなら、躊躇いは捨てられる。
「――私が必ず、責任を持って縁談を纏めます」
そう請け合ったマーズ子爵の顔に迷いはなかった。