親切な変態
「……知らなかったとはいえ、どう考えても、こちら側に非があるなぁ。伯父のマーズ子爵がしたことは卑劣だ」
ナイト辺境伯がうーん……と考え込みながら、そんなことを言い出した。
「それがどうかしたの?」
「いいよ――逃げなよ」
「え?」
「僕のほうが婚約破棄したていにしてあげる。――実際会ってみたら、オーガみたいな女性でげんなりしたから、追い返したと言っておくよ。君宛てに直接慰謝料を払うようにすれば、それでお母さんを助けられるだろう」
オーブリーは何か言おうと口を開きかけて、言葉が出てこなかった。
彼は頭の良い人だから、婚約破棄の結果、自分が致命的なダメージを負うことになるのをちゃんと理解している。理解した上で、それでもオーブリーのために先の台詞を告げたのだ。
違約金は双方一律ではない。
両家のあいだに資産格差がありすぎるので、ナイト辺境伯側の違約金は桁違いに莫大な金額が設定されていた。
これは彼の伯父であるマーズ子爵の策略だろう。入籍前にたくらみが露呈した場合、ナイト辺境伯がすべてを御破算にする危険性が高かったから、それをさせないよう安全策を講じた。
けれどナイト辺境伯は損得で物事を考えていない。しがらみも、保身も、どうだっていいのだ。
……彼は正真正銘のヒーローなんだわ。
オーブリーは彼の美しい瞳をじっと見つめ返した。
ナイト辺境伯はたくさんの魔物と戦い、多くの人を救ってきた。
……それは彼が強いからできたことなの?
オーブリーは『違う』と思った。強いか弱いかは関係ない。そして他者からの評価も彼の眼中にはない――皮肉屋だし、いい人ぶらないし、自由気まま。彼はただ心の声に従って、正しいことをするのだ。誇り高い人だから。
だから今日会ったばかりのオーブリーのために、自分がすべての痛みを引き受けようとしている。なんてことないというように、軽い口調で、『逃げろ』と言ってくれた。
――これまで生きてきた中で、これほど私に親切にしてくれた人がいただろうか。
母のことは好きだった。滅多に怒らない人で、いつも優しくしてくれた。けれどオーブリーを護ってはくれなかった。
たぶん、オーブリーは九歳の時、少しだけ母にがっかりしたのだ。――『オーブリー、あなたキャメロンちゃんの腕をつねった? キャメロンちゃんは、あなたより三つも下なのよ。もう少し優しくしてあげて』――あの言葉が頭のどこかにずっと残っている。
母は娘よりも、ずる賢いキャメロンの嘘を信じたのだ。オーブリーは深く傷ついたし、『私の味方はどこにもいないのかもしれない』という、どうしようもない恐怖を感じた。
それは棘が刺さったようにずっと残り続けた。――自分でなんとかしなければ。――誰も助けてくれない。
反面、子供の頃から無理をしすぎたせいで、心のどこかがずっと悲鳴を上げていた。――誰か力を貸して。――誰か助けて。
どうしてよりによって今、その助けが現れるの?
ここで気を抜いたらだめなのに。
しっかりしなくてはだめなのに。
オーブリーは唇を噛み、眉間にきゅっと力を入れる。
ナイト辺境伯が呆気に取られた様子でこちらを見てきた。
「……なんなんだ、その顔は」
「うう……黙りなさい」
「殺し屋の目つきだぞ。怖すぎる」
「うるさい」
「なのに、泣くなよ」
泣くなよ、と言われても。
じわ、とオーブリーの視界がさらに歪む。空色の瞳に滲んだ雫がどんどん大きくなる。
――彼女の白い頬には朱が差し、鼻の頭まで赤くなっていた。意地っ張りの子供がぐずっているようなその顔つきを見て、とうとうナイト辺境伯の口角が上がる。
くく、と彼が笑い出した。
「……鼻水出てるし」
「黙りなさい、って言ってるでしょ!」
「鬼の目にも涙」
「うるっさい!」
「悪態をついても迫力ないぞ。泣き虫」
「泣いてないから」
「じゃあその目からボロボロ零れ出ている、透明な液体はなんだ」
「あ、汗よ!」
拳でグシグシと目元を拭っているあいだ中、ナイト辺境伯は可笑しそうにこちらを眺めていた。
「な、何よ、ジロジロ見ないでよ! 変態!」
「面白い」
「――こ、これ、涙じゃなくて、汗だから!」
オーブリーはきゅっと目を閉じ、真っ赤になって叫んだ。




