芝生の上で寝ている男
結婚式を挙げるストーン教会までは、フォックス子爵邸から歩いて三十分ほどの道のりだ。
ナイト辺境伯とはそこで初めて対面することになる。そして神前で誓いを立て夫婦となったふたりは、この地に留まらず、すぐに西部地方に向けて馬車で出発する予定らしい。
花嫁の地元まで迎えに来て、そこで式を挙げるというのは、一年後に身代わりに死んでもらうことを、一応負い目に感じているのだろうか。
……まぁ、オーブリーにとっては別にどちらでもいいのだけれど。
結婚式には父も出席する。娘のためというより、ナイト辺境伯に対する礼儀だろう。
ブース婦人は出席しない。彼女は赤の他人であり、『フォックス子爵家に住み着いている、当主の愛人』にすぎないからだ。よってその娘キャメロンももちろん来ない。
先日の修羅場のあと、彼ら三人の関係がどう変わったのか、屋根裏部屋で暮らしているオーブリーは知らない。
これまでどおり――というわけにはいかないだろう。
キャメロンは執念深い娘だが、父もその点では負けていない。
父は『ちょうどいい情婦』としてブース婦人を気に入っていたようだが、デメリットがメリットを上回ってしまった今、好意が続いているのか怪しいものだった。
今回とんでもない無礼を働いたキャメロンを許してまで、ブース婦人を手元に置きたいと考えるだろうか。
キャメロンはキャメロンで厚顔無恥なところがあるから、『信頼を裏切ったフォックス子爵は深く自分を恥じ、誠心誠意、私に詫びるべき。詫びてきても許すつもりはないけれど』とでも考えていそうだ。
よって自身の立場が危ういことに気づいておらず、相手を困らせているつもりになって、お姫様気取りでプリプリしながら部屋に引きこもっていそうだった。
この中ではブース婦人が一番冷静に状況を見ているかもしれない。人格はさておき、彼女は頭がそこそこ切れる。――ただ、関係者全員がイカレている場合、頭が回る人間が一番損をするのが世の常だ。ブース婦人は神経をすり減らし、胃を痛めているに違いなかった。
――『時間になったら馬車で一緒に教会へ向かおう』――父にそう誘われたが、オーブリーはそれを断った。『少し早く出て、歩いていくから結構よ』と。
父はオーブリーを生意気だと叱らなかった。……それはそうだろう。生贄のために娘を嫁に出すのだと、オーブリー本人に知られているのだ。
ただ、
「……逃げないよな?」
ポツリとそう問われた。
オーブリーはうんざりしながらも、
「逃げたりしません。あなたには、母の面倒を見てもらわないといけないから」
と静かに答えておいた。
――そこが私のアキレス腱よ、分かっているでしょう――オーブリーが真っ直ぐに見つめると、父はホッとした様子だった。確かにそこを押さえている限り、自分は安泰で、オーブリーに言うことを聞かせられると確信できたようだ。
別にオーブリーは父を安心させるためにそう言ったわけではなかった。
もしかして逃げる気では? と疑念を抱かせたままだと、警戒されて見張りをつけられるかもしれない。それは困る。オーブリーは父を油断させておく必要があった。
式の前に、オーブリーにはすべきことがあったからだ。
――この田舎道を真っ直ぐに進むと、ストーン教会に辿り着く。
もうかなり歩いた。あと五分くらいだろうか。
先を急いでいたオーブリーであるが、カラマツが両脇に植えられた場所に差しかかったところで、視界の右端に変なものが映り込んだ気がして、ピタリと足を止めた。
……ん?
首を横に向け、信じがたい気持ちで眉根を寄せる。……嘘でしょう?
「やっぱり、人だわ……」
カラマツの向こう側――芝生が敷かれた場所に、男性が仰向けで寝ている。通りにいるオーブリーの位置からは、靴の裏が見えていた。
農夫が道端で休憩しているというわけではない。なぜならその男性は礼服を身に纏っていたからだ。
……教会のそばで、礼服。
どう考えても、結婚式の参加者だろう。ここからでは顔が分からないが、鮮やかな金色の髪が見えているので、たぶん目当ての人物に違いないとオーブリーは思った。そう――彼の髪は綺麗なブロンドだと聞いている。
それに何より、礼服姿だというのに、こんなところで昼寝をしている図太さが、いかにもな感じだと思ったのだ。細い神経では、魔物退治なんてしていられないでしょうから。
オーブリーはむぅ、とさらに眉根を寄せ、進行方向をそちらに変えた。
結構な足音を立てて向かっているのに、相手は目を開けようとすらしない。
オーブリーはとうとうその男の真横まで辿り着いた。真上から見おろす。
想像していたよりスラリとしていた。もっと頑健なタイプかと思っていた。寝転がっていても背が高いのは見て分かるが、それにしても、戦闘になった時にこれで力負けしないのだろうか。
蜂蜜のような綺麗な髪だ。品の良い鼻梁。唇は薄めだが、不思議と酷薄そうな印象は受けない。……見知らぬ女を犠牲にしようとしている、極悪人のくせに。目を閉じていると、なんだか天使のように清らかに見える。
……どうしてくれようかしら。
オーブリーの目つきは今や凶悪を通りこして、殺し屋のそれになっていた。
彼女がそうっと両手を持ち上げた時――
「そのカバンをどうする気だ?」
男がパチリと目を開け、尋ねてきた。――左右で違う、エメラルドとアメジストの輝き。
彼の神秘的なオッドアイが、手提げカバンを今まさに振り上げようとしていたオーブリーを見上げている。
両足をしっかりと開いて立っていたオーブリーは、虫でも眺めるような目つきで彼を見おろす。
「……あなたの顔に叩き下ろそうかと」
「……なんで?」
「……天誅?」
地獄の沈黙が流れた。




