結婚式の朝
――現在(結婚式当日)。
花嫁のオーブリーはひとりで身支度を始めた。
ブース婦人が用意した漆黒のドレスに袖を通す。色は闇夜のような黒だが、デザインはラウンドネックで物柔らかだった。デコルテや袖部分はレースになっている。
フォーマルなドレスをひとりで着るのは至難の業だが、幸い、オーブリーは体が柔らかい。右手を上から、左手を下から、それぞれ背中に回した場合、しっかりと手のひら同士が重なるほどだ。そのため鏡で背中を確認しながら、なんとか手伝いなしで着ることができた。
古びた鏡台の前に腰かけ、癖のない髪に丁寧にブラシをかける。……この赤い髪を眺めていると、母を思い出す。優しい母と同じ色だから、心のブレーキが利かなくなりそうな時にこれを見るのだ。
――だけどこれからは。
オーブリーの薄青の瞳は、戦にでも出るかのように鋭い光を放っていた。
いつもは下ろしっぱなしの髪をハーフアップにする。凝った髪型は無理なので、ねじってから後ろで纏めて黒いリボンで結んだ。
あとはメイク。
贅沢品は何も持っていなかったオーブリーは、数日前に父からお金をもらい、町で必要なものを買って来た。
「化粧もしないで公の場に出て行けば、あなたが恥をかきますよ」
お金をもらうためにここまで言わなければならず、オーブリーは虚しい気持ちになった。
……どうかしている。
ここ最近でたぶん百回は心の中で呟いた言葉だ。
すべてがどうかしている。
化粧の仕方がまるで分からないので、購入した時に店の人に詳しく教えてもらった。オーブリーは分からないことを訊くことに躊躇いがない。
「今度改まった場に出るので、化粧をする必要があります。でも母が入院中で、習う相手がいなくて。お手数をおかけして申し訳ないですが、一から教えていただけないでしょうか」
事情をざっくりと説明したら、同情してくれたのか、懇切丁寧にやり方を教えてくれた。
それはオーブリーが想定していたより複雑な工程で、まるで画家が絵を仕上げるように色々やることがあるのだと知った。
保湿、下地、ベース……覚えられそうになかったから、メモを取りながら聞いて、実際にお店で実演してもらって、しっかりと理解した。
口紅の色も自分では決められそうになかったが、お店の人から「あなたはベージュ系のピンクが合う」と言われたので、出されたものを買った。
メイクを落とす道具や肌の手入れ品も、おすすめされたものはすべて購入した。
父がブース婦人に買い与えてきた宝飾品から比べれば、微々たる額だろう。
けれど『せっかくだから父の金を散財してやろう』と考えて使ったわけじゃない。お店の人が親切だったので、お金をここで使おうと思っただけだ。
――オーブリーは屋根裏部屋の古びた鏡台の前で、先日書いたメモを読みながら、記憶を呼び覚まして、丁寧に化粧をしていった。
「あなたはまだ若いから、塗りすぎないようにね」
お店の人に言われたことを思い出す。
一瞬、オーブリーの瞳が揺れた。
……だめだわ。人に優しくされたことを思い出すと、泣きそうになる。
心が揺れそうなことは、なるべく考えないようにしなくては。
強くならなくては。
これからは絶対に負けない。これまで負け続けてきたのだ。もう負けない。
ベージュ系ピンクの口紅を丁寧に引き、慎重な手つきで道具を片づける。化粧道具は手提げカバンにすべて詰め込んだ。……これが私の嫁入り道具。
オーブリーはカバンひとつを提げ屋根裏部屋を出ると、螺旋階段を下りていった。
そして屋敷を出て、早足に通りを歩き始めた。




