黒衣の花嫁
……そうね、いい機会だわ。
オーブリー・フォックス子爵令嬢は、険しい顔でそんなことを考えていた。
背筋を伸ばした彼女は、両手を行儀良く太腿の上で重ね、ベッドの端に腰かけている。
癖のない赤い髪が、窓から射し込んだ陽光を反射して淡く輝く。薄青の虹彩は晴れた日の空の色なのに、表情が険しいせいか、曇り空のように孤独の色が濃い。
オーブリーが腰かけている古臭いベッドは、どういう訳か斜めに傾いていて、居心地が悪そうだ。
なぜこんなことになっているかというと、二年前にベッドの足が一カ所だけ、数センチばかり欠けてしまい、ガタガタするようになったので、左隣の足もノコギリで同じ長さになるよう切り落としたためだ。それにより安定はしたものの、寝転がる部分に傾斜ができた。残り二本を短くする前にノコギリが折れてしまったため、そのままになっている。
腰かけている彼女の横には、漆黒の花嫁衣裳が置かれていた。
「……私の人生は総じて幸せ? それとも不幸せ?」
今日、結婚するんですもの。節目だから考えてみましょう。
プラスマイナスで計算したらどちらになるのか――自分のこれまでの人生を、簡潔に振り返ってみるのもいいと思うわ。
* * *
――九歳。
この時はまだ不幸ではなかった。そう……たぶんね。
母はまだ元気だったから、その点では少なくとも幸せだったの。
庭園の薔薇が綺麗に花開いた頃、母のお友達が遊びに来た。
やって来たのはブース男爵夫人。夫人はひとり娘のキャメロンを伴っていた。キャメロンはオーブリーの三歳下だから、当時六歳だったはず。焦げ茶の癖毛があちこちに跳ね、櫛も通していないように見えた。瞳は濃い灰で、意志が強そうだ。
ブース男爵夫人は肉感的な女性で、正直なところ、オーブリーは彼女のことが少し苦手だった。子供の話を聞く時に、夫人は糸のように目を細めて微笑むのだが、瞳の奥が少しも笑っていないように感じられたからだ。
母とブース男爵夫人が客間で話しているあいだに、いつの間にか六歳のキャメロンが姿を消している。
オーブリーは心配になり、キャメロンを探すため部屋を出た。
キャメロンはすぐに見つかった。驚いたことに彼女は廊下の隅で、当家のメイドを殴打していた。
六歳の少女とはいえキャメロンはかなり大柄だし、本気で殴りかかれば結構な威力だろう。メイドは蹲り、顔を手でかばっている。
仰天したオーブリーはそちらに駆けて行った。
「何をしているの!」
殴られていた黒髪のメイドは、先日雇ったばかりの女性だった。確かミアという名前で、商家の三女ではなかったかしら。殴ってきたのが貴族の客だから、子供相手でも抵抗できなかったのかもしれない。
殴ったほうのキャメロンは後悔している様子もない。大きな濃灰の目でこちらを睨み上げてくる。邪魔をされて腹を立てているという顔。
オーブリーが問うようにメイドのほうに視線を向けると、彼女は顔を青褪めさせ、怯えたように口を開いた。
「こちらの……お嬢様が突然殴ってきて」
「突然? 何かきっかけはなかったの?」
「分かり、ません……私の黒髪が嫌いだと……言われました」
意味が分からない。オーブリーは呆気に取られたあと、幼いキャメロンの暴力性を不快に感じ、きゅっと眉根を寄せた。腰に手を当てて彼女を見おろす。
「本当なの?」
「どうでもいいでしょ」
「どうでもよくないわ。当家のメイドに暴力を振るわないでちょうだい。――大体、黒髪の何がいけないの。私は彼女の髪は綺麗だと思う」
「うるさいなぁ、放っておいてよ」
「放っておけないわ、だってあなた――」
不貞腐れたように舌打ちしてそっぽを向いてしまったので、『ちゃんと話を聞きなさい』と注意をしようと、キャメロンの腕に触れる。オーブリーとしては決して強く掴んだつもりはなかった。けれど……
「痛っ!」
キャメロンは大きな声で叫んだあと、こちらの腕を乱暴に振り払って駆け出した。――彼女が向かったのは、母たちがいる客間の方角である。
オーブリーはしゃがみこんでいるメイドを支え、彼女が立ち上がるのを手伝った。「痛いところはない?」とか「ぶたれたところを冷やす氷をもらってきましょうか?」とか世話を焼いているうちに、五分以上が経過していた。
メイドがすっかり恐縮して「大丈夫です」と言うので、オーブリーは客間に戻った。
扉を開けると、先ほどはいなかった父、フォックス子爵の姿もある。
父、母、ブース男爵夫人、その子供キャメロン――四人がソファに座り、こちらを一斉に見てきた。
母が戸惑った様子でオロオロと話しかけてくる。
「オ、オーブリー、あなたキャメロンちゃんの腕をつねった?」
「え?」
「キャメロンちゃんは、あなたより三つも下なのよ。もう少し優しくしてあげて」
「私、つねっていないわ」
オーブリーが毅然と言い返すと、父が眉根を寄せて叱責してくる。
「オーブリー、まず謝りなさい」
「父様……」
「謝りなさい」
オーブリーは謝らなかった。自分は悪くないと思ったからだ。
* * *
――十歳、春。
なぜかブース男爵夫人が当家に住み着き始めた。
夫と死別し、行くあてがないのだという。夫がいないので、もう『男爵夫人』ではないのかも。――『ブース婦人』と呼ぶよう、父から言われた。
婦人のひとり娘であるキャメロンも当然一緒だった。『キャメロンを妹のように可愛がってやりなさい』というのも父から命じられた。
当家に来てからキャメロンは、下ろしっぱなしだった癖毛を左右に分けてお団子にまとめるようになった。
この頃から母は臥せりがちになる。もともと体は丈夫なほうではなかったのだけれど、突然ガクリときた感じがした。
――数カ月たち、オーブリーはあることに気づいた。
食事の際、オーブリーが一番末席になっている。
最初はなんだかんだと言いくるめられ、席を替わっていたのだが、いつの間にかそれで固定になっていた。
母が使っていた席はブース婦人のものになった。父の斜向かいの席だから、ふたりの距離はとても近い。そして以前オーブリーが使っていた席は、キャメロンのものに。
父の冗談を聞いて、ブース婦人が「うふふ」と可笑しそうに笑う。そして笑ったあとは、艶っぽい仕草で必ず父の肩に触れた。『食事中、三度は触るのが大人のマナーです』とでも決まっているかのように。スキンシップの最中、父の口角は満足げに上がっていた。
父が婦人の手を振り払わないことについて、オーブリーは不潔だと思った。
* * *
――十歳、冬。
オーブリーがやらかした『あること』がきっかけで、屋根裏部屋に追いやられた。
この頃から、三歳下のキャメロンから暴力を振るわれるようになった。
理由は特にない。『キャメロンの機嫌が悪い時、オーブリーは我慢しなければならない』という狂ったルールが、いつの間にか当家で取り決められたらしい。
自衛のため突き飛ばし返したら、その夜父から書斎に呼び出され、キャメロンが見ている前で思い切り頬を殴られた。平手であったけれど、オーブリーが立っていられずに床に倒れ伏したほどの、大人の本気の力だった。
ジンジンと頬が痺れる。ガンガンと頭が痛む。口の中は血の味がした。
けれどそんな体の痛みよりも、耐えがたいことがあった。――父がこの行為を、あえてキャメロンの前でしてみせたというショック。
オーブリーは歯を食いしばり、その場では意地でも涙を見せなかった。
屋根裏部屋に引きこもったあとで、オーブリーはベッドに腰かけて、初めて弱々しくしゃくり上げた。
……お星様しか見ていないから、もう泣いていい。
オーブリーはひとり泣き始めた。両拳で目元を拭い、俯いたまま何時間も泣いた。
母はもうこの家にいない。体調が回復せず、療養所に入れられてしまったからだ。
でも家にいて殴られるより、そのほうがよかったのかもしれない。
* * *
――十一歳、初夏。
友達ができた。
――私のブルーバード。
あなたがいるから、私は生きていける。
【あらかじめご案内いたします】
間違いの指摘はありがたいですが、アドバイス・批判はご遠慮しています。
(詳細は活動報告にてご説明しています)
また、誤字・言い回しの指摘は『誤字報告』を開放していますので、そちらをご利用ください。
どうぞよろしくお願いいたします。