放たれた魔物
「きゃぁぁぁぁ!!魔物よ!!!!!」
「逃げろ!!」
外から聞こえる悲鳴は一人だけではない。その中に紛れて獣の威嚇の声も聞こえる。
「そんなはずないわ!!レグルス領に魔物なんてほとんど出ないのに……。」
声の先を見つめ、ポツリとリリアン様が呟いた。
それもそうだろう。
魔物は国境沿いの魔の森にほとんどが生息していて、サルヴィリオ領か、モンテーノ領。南であれば海域沿いで退治されるのがほとんどだ。
稀にそれらの領を越えて出てくるのは飛行タイプの魔物で、それでもほとんどが王都に着く前に討伐されている。
しかもこの獣臭は、高い魔力を持つサーベルタイガーだ。
あり得ない。
密輸……??
「リリアン様たちは建物から出ないでください!」
そう出口に向かって走りながら、リタと共に店の外に出た。
魔物の討伐には、慣れている私たちが対応するのが最善だ。
護衛として剣を帯刀することを公爵様に許されているので、腿に隠してある短剣を構え、勢いよくドアを開けた。
その瞬間、視界に飛び込んできたのは氷漬けにされたサーベルタイガーだった。
その魔物の前に立っているのは公爵様。
彼の三倍はあるであろうそれは、完全に息絶えている。
周りの市民も驚いたように硬直し、一心に彼を見つめている。
「第一分隊は、サーベルタイガーを運べ。第二分隊は怪我人の手当てをしろ。」
彼がそう指示を出すと、固まっていた騎士達も、ハッと自分の立場を思い出したのか、敬礼をして作業を始めた。
それと同時に市民から公爵様への歓声が上がった。
その様子にあっけに取られていると、右後方から微かに、声が聞こえた。
「ッチ。失敗か。」
振り向くと、こっそりと裏路地に入っていく男が見えた。
「リタ!リリアン様の護衛に戻ってて。」
そう伝えて、男の消えた裏路地に向かって走り出した。
その走り出した方向は、先程の魔物の臭いが濃くなっていく。
『失敗した。』?
まさか誰かがここに魔物を放った?
でもあんな魔物を手懐けるなんて簡単ではないし、強力な魔物から取れる魔石は高価だ。
それを易々と諦めてまで何をしたかったのだろうか?
怪しい人影の消えて行った裏路地に着いた時には、当然の如くそれらしい人影は無かった。
それでもそこに残る魔物の臭いに眉を顰める。
その時、ふと慣れたにおいと気配がした。
「お〜嬢〜。」
背後から聞こえた今にも呪わんと言いたいその声の主は、振り向くと頬を引き攣らせていた。
「あ……あぁ。テト……。」
やっぱり先程馬車から見えたのはテトだったのだ。
明らかに不機嫌な彼の様子に思わず一歩引いてしまう。
「あんた、何してんすか?結婚式もあんな形でほっぽらかして!レグルス公爵領まで探しに来て正解でした。」
今にも食べられそうな勢いで言われ、思わずたじろぐ。
「俺がどんだけ伯爵家のみんなに怒られたか!!側仕えのくせに何をしてんだと騎士団の連中まで俺をフルボッコですよ!!俺は男で控室に入れなかったから、指示された場所でみんなと待機してたのに!!!アホ王子まで毎日伯爵家に来てまだ見つからないのかって大騒ぎしてくんすよ!俺の王位継承権がとか言ってますけど、知らんつーの!!そもそも怒られるならリタ……!」
「ごめん、その話、後でいい?」
長いクレームになりそうだと思いながら話をぶった斬った。
「……は〜〜い〜〜?」
怒りの苦情を止められ、さらなる怒りに震えるテトは行き場のない手を戦慄かせる。
「さっきの魔物騒ぎ、見た?」
そう言うと、一瞬でテトは真顔になった。
「もちろんです。騒ぎがあったからそこに行ったんです。その魔獣のいる真ん前の店から出てきたお嬢を見つけて追いかけてきたんすから。」
「そのサーベルタイガーの臭いのする男がこの路地裏に入って行ったの。」
「こんなところに魔物が出ること自体不自然っすから、怪しさ満載ですね。」
「ええ。とりあえず臭いを辿るから……。」
「了解。」
そう返事したテトと私は気配を消した。それと同時に、
「…………お嬢、化粧してます?」
「…………今それ必要?」
あまりの緊張感のなさに思わずイラッとする。
「いや、あまりの怒りでわかんなかったんすけど、珍しいなと気になって。」
「黙ってて。」
「……サーセン。」
分からなかったと言うことは、化粧をしてもしなくても一緒だと言うことだろう。
その言葉に余計イラっとする。
裏路地に入り、一歩、一歩進むたびに魔物の臭いも濃くなる。しかも、一種類ではない。
嗅いだことのあるいくつかの魔物の臭いも混じっている。
できれば一人で対峙したくない魔物ばかりの臭いだ。
じっとりと、暑さから来るのではない汗をかいているのが分かる。
「……お嬢?」
私の緊張を感じ取ったのか、テトが心配そうに声を掛けた。
「この臭いは……恐らく、バジリスクにフェンリルもいると思う。」
「……それは……。……帰りません?」
思わずテトの足の脛を蹴り上げる。
「だっ……。冗談じゃなくて……。騎士団連れてこないと何も出来ずやられるのがオチっすよ。バジリスクにフェンリルって、普通の騎士団、一個隊でも手に余りますよ。」
分かっている。でも、もう少し情報を集めないと、どう動けばいいのか判断が出来ない。
「とりあえずリタに連絡を取ってきて。場所と、現状。公爵家のリリアン様の護衛兼侍女をしているからすぐ分かるわ。」
「…………あんたら、マジで何してんすか。」
死んだような目で私を見るテトに、いいから行け。と目で言うと、「後でちゃんと聞きますからね。」と言って大通りに向かって行った。
もう少し、臭いを辿ろうと足を踏み出した瞬間、ポンと肩を叩かれた。
気配を全く感じなかった上に、足音も、においもしなかった。
あまりに驚いて、飛び退き、スカートの下の短剣を抜き、構えた。
「失礼。アンノ殿。驚かせましたか?」
冷気を纏ったような、少し怒りを含んだ声でそう言った男性は、何となく見覚えがあるような人物だった。
「え……ええと。貴方は。」
今彼はティツィアーノではなくアンノと呼んだ。つまりここに来てから私を知った人間だ。
「私は、レグルス公爵家の騎士団の者で、公爵様の指示でこちらに来ました。諜報員ですので、騎士服は着ておりません。」
そう言った彼は、レグルス騎士団の紋の入ったブローチを提示した。
茶色い髪に、青色の瞳。どこにでもいそうな顔立ちをしているが、どこかで会ったことがあるような彼は、右手に銀の指輪をしており、服装は一般市民に見える服を着ている。
静かな怒りを湛えた瞳は、逃げることを、目を逸らすことを許さない強さがあった。
その視線は全身の落ち着きを失わせるような、全身の血が騒ぐような感覚を引き起こさせた。




