落とされた恋 3
「口元を塞げ!!」
そう声が聞こえた瞬間、目の前にティツィアーノ=サルヴィリオが降り立った。
彼女は何かを大蛇に向かって投げつけた。鮮やかな赤い液体がベッタリと大蛇に付くと同時に、強烈な刺激臭がして、思わず布で口元を覆った。
彼女は私の腕を引っ張り走り出した。
ちらりと後方を見ると大蛇はその刺激臭をものともせずこちらを追いかけてくる。
大蛇用の嫌がる匂いか何かを投げつけたかと思ったが、違うようだ。
「何を投げ付けたんですか!?」
「黙って、もうすぐ着くから!!」
その時、高い崖を背に退路が塞がれた。
この崖は流石に登れない。
――――――やはり、私が倒すしかないか。
そう思った瞬間、彼女は大蛇に向かって不敵に微笑んだ。
「さようなら。」
その笑顔に目が釘付けになった瞬間上空から大鷲が大蛇の頭上にのし掛かった。
さらにもう一羽、尾を鷲掴みし、二羽で大蛇を引きちぎり崖の上空にある巣へと持ち帰っていった。
あまりのあっという間の出来事に呆然としてしまう。
「あの刺激臭は、大蛇の感覚を狂わすものでも何でもなく、真っ赤な液体は大鷲が見つけやすいように付けたものよ。」
つまり、彼女はここに大鷲がいることを把握していたと言うことだ。この巣は野営地から見えにくいところにあるが、いつここを知ったのだろうか。
そう驚きながら彼女を見ていると、スッと彼女の目が細められ、低い声で聞かれた。
「ところで、どうして三人を隊に戻した?一人であの大蛇は無謀だと思わなかった?」
「……四人で死ぬより僕一人の犠牲で済むならと思いまして…。」
本当は一人で大蛇と対峙した方が楽だったからだ。
簡単に倒せるとは思わなかったが、大蛇にそれなりのダメージを与えて逃げる時間は稼ぐ自信があった。
「僕一人の犠牲?」
彼女は濃いブラウンの瞳に怒りを滾らせ、繰り返した。
「はい、彼らはまだ新米騎士ですし、未来ある若者です。民の為にも……戦って命を落とせるなら本望です。」
本当は国の為に死んでも良いなんて思っていないけれど、自分の命を重たいものだとは感じない。
戦争や討伐で消えていく命を数えきれないほど見てきた。
『戦って死ぬ。』
それが私の人生だ。
もちろん簡単に死ぬつもりはないけど、自分の人生に執着はない。
そんなことを考えていた瞬間、胸ぐらを掴まれ後ろの木の幹に叩けつけられ、絞り出すような声で彼女は言った。
「死ぬことは許さない。どんな状況でも生きることを諦めるな。命令だ。」
その瞬間心臓が大きく跳ねたのが分かった。
彼女から向けられた瞳は、逸らすことを許さないものだった。
こんなにも強い光を瞳に宿した女性を見たことがあっただろうか。
いつも寄ってくる女性はキツイ香水の香りを漂わせ、とても好ましいとは思えない視線を向けてくる。
媚を売るだけでなく、私の価値を値踏みし、自身を飾り立てることに全てを注いでいる。
でも、今目の前にいる彼女は訓練で日に焼けた小麦色の肌に、剣だこの出来た手で私の胸ぐらを掴み、化粧っけの無い肌を晒し、その瞳はきらきらと生気に満ち溢れている。
視線をその美しさから引き離すことなどできなかった。
自分の全神経が彼女に集中する。
「貴方の犠牲でどれだけの人間が悲しむと思うんだ。家族や、仲間、……この瞬間をこの短い時間を共有した私ですら貴方が死んだら心は苦しい。」
私は部下に、周りの人間にそんなことを感じたことなどない。
戦う立場にいる以上それは当然のことと受け入れているし、戦場にいる人間はそう感じている人間が多いだろう。
でも彼女は心が豊かで、きっと人の心に寄り添える人間だ。
私が死んだら辛いと言うその言葉は、今の彼女の表情が真実だと表している。
「私が王太子妃となり、いつか王妃となった時、誰も飢えることなく、戦争や魔物に怯えることなく、全ての国民にこの国を故郷と誇ってもらえる国を作りたい。」
そんなのは綺麗事だ。そんな甘い考えでは国は守れないし、間違いなく淘汰されていくだろう。
「綺麗事と笑う?それでもどこか一つ妥協して歪めてしまうと、全てがいつか捻れて行ってしまう。私はそこだけは違えることのない人間でありたい。この手から溢れていく命だってあるのは分かってる……。それでも…それでも。」
きっと彼女は貴族社会の腹の探り合いや、化かし合いはできない性格だろう。
実直で誠実。でもその純粋さではこの貴族の世界は生きにくいはずだ。まして王家など欲望と陰謀にまみれた象徴だ。
ならば、私が彼女の手が汚れることのないように、歪ませることの無いように、全てのものから彼女を守ろう。
「そのままの貴方で国を守ってもらえるのなら、私たち民は幸せです。」
そう言うと彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「貴方の為に死んでもいいと言ったら貴方は怒るんでしょうね。」
そう笑いながら言うと、彼女はむっとしたように、「当然だ。」と言った。
「では、貴方の為に生きることを許して頂けますか?」
そう言って、片膝を突き、騎士の忠誠を誓う礼をとった。
すると彼女は自身の剣を鞘ごと外し、私の肩に触れるか触れないかのところでピタリと止め、心地良い声で言った。
「貴方の生きる目標ができるまで、その心と忠誠を預かります。」
普通はそんなこと言わない。
騎士の忠誠は貴族、王族共に騎士が生涯死ぬまで誓うものだ。
それを誓われるものは数を誇る。
強制できない忠誠は自身を高めるものとされているからだ。
頭上から剣が引かれた気配を感じ、下から彼女を見上げると、森に差し込む光が彼女を照らし、女神のようだと思った。
全身は硬直し、彼女の美しさから目が離せない。
大きく響く鼓動は大きく耳に響き、ざわりと不快ではない何かが全身を駆け巡った。
その直後、泣きたくなるような、胸がじわりと苦しくなる感覚に襲われる。
彼女は王太子の婚約者だ。
人生で初めて何かを欲しいと思ったその瞬間、手に入ることはないと知った。
三年前のあの感情を忘れることは無かった。




