YU06 民爺(たみや)のトイレ
《左側のドアが開きます》
ドアが開くと同時、俺は電車から飛び出した。
発射された、と言ってもいい。とにかく弾け出るように、弾丸の如く躍り出た俺は一目散にトイレを目指した。
そう、腹痛である。
「ぐぬぅう……!」
ラッシュ時の人だかりがとにかく憎い。
走らせろ、俺を走らせてくれ。せめて競歩で行かせてくれ。
鞄を前に抱き抱え、なるべくコンパクトにした身をよじりながら人混みを縫うように進む。
そうしてようやく駅のトイレに辿り着き、俺は絶望した。
黒いスーツ、スーツ、学生、スーツ、おっさん、スーツ……トイレの前には長い列ができていたのだ。
うそだろ?!!
声にならない叫びが心の中で木霊した。
もう半分泣いていた。
たまたまみんな小が被っただけだよね、と少し期待して覗いたが、全員個室待ちだった。
俺の代わりに腹がきゅるると物悲しく鳴いた。
長蛇の列。
一分一秒を争う俺には、これだけの列がはけるのを待つことは不可能。母を求める赤子のように便座を求めて鳴く腹を宥めながら、他にトイレは……と考えていると、視界右側、廊下の天井に吊るされた看板が目に入った。
矢印とともに、「トイレこちら」と書いてある。矢印の方向からして、こことは別のトイレのようである。
わかる。これだけ焦って余裕のない俺でもわかる。こんなに近くに別のトイレの案内があるはずない。
それに、この駅には昔からトイレにまつわる怪談があって、普段は見えないが、ひと気のない時間帯、一人でいる人のところに現れるそのトイレの一番奥には何かがいるという。
もうどう考えてもそれだが、逆に考えれば一番奥以外は何もいないということだ。
背に腹はかえられぬ。渡りに船とばかりに、俺は矢印の示す通路に飛び込んだ。
「はぁ、はぁ………………」
その通路は先ほどのラッシュ時の喧騒とは打って変わって異様に静かで、通行人もおらず灯りも薄暗く、文字通り静まり返っている。
その中にぐぎゅるるるという腹の音だけが響いて不気味なのか恥ずかしいのか微妙な気持ちで、小走りで進む。
通路には先ほどと同じく天井から案内が下げられており、「トイレこちら」と左の空間を指していた。
「うっ…………!」
ガラ空きのトイレの存在を確認し安心したところで、俺の腹が再び暴走を始める。
渦を巻くような猛烈な衝撃が体内を迸り、慌てて駆け込んだ。
手前から三個、十分に並んだ個室はけれどもドアが閉まっているように見える。
正確には、一番奥を除いて手前の二つが閉まっていた。
「な、何ィイっ……?!」
こちらの考えを見透かすように、選択肢が絞られている。
手前の薄汚れたドアを叩いてみるも、応答はなく、そもそも誰か入っている気配もしない。見れば鍵も掛かっておらず、そのくせ押しても引いても開かない。
二番目のドアをドンドンと叩くも、結果は同じで、明らかに三番目、一番奥に誘導されていた。
しかしこちらとて、一度出せると思ってしまったものはもう引っ込みがつかない。
誰もいないのに閉まっている二つの個室の奥、絶対に何かいるけれど開いている個室に俺は飛び込んだ。
「入りますよ?!」
半ばキレ気味で開いたドアをノックしつつ便座を見ると、半透明で半腐り、歯が半分くらい抜けた全体的に中途半端な男がぐったりとした様子で座っている。
半透明なので絶対に人間ではない。
それを確認してから俺はドアを閉め、ズボンを下ろし、意を決して男の上から便座に腰を下ろした。
透けた体と重なった部分がスースーと少し寒い。
「出すぞ、出すからな!」
便座に霊と二人羽織状態という前代未聞の体験をしながら、俺に重なった霊に一応声をかける。次の瞬間、冷たい何かが尻に触れた。
「ひゃっ!!」
驚いて足の隙間から下を見れば、便器の底から無数の青白い手が伸びており、その一つが俺の尻を撫でたようだった。
「こっちにもいたのかよ!」
便器にこれだけ手が詰まっているということは、この便器使っても大丈夫なのか……?
未曾有の事態に、一瞬でいろいろな懸念が駆け巡るも、驚きで一度引っ込んだものがまた渦巻いて音を奏でている。
「知らんぞ! 今のうちに消えとけよ! 言ったからな!!」
セクハラゴーストハンドのことはもういい。
見なかったことにして、俺は用を済ませた。
終わってから見ると、半透明の男は変わらず座っているが便器の中の手は消えている。
レバーを押すと心霊トイレの割に水道も通っているようで、ちゃんと水が流れて安心した。
後ろの半透明の男を気にしながら個室を後にし、手を洗って外へ出る。
出ればそこは先ほどとは打って変わってざわざわとした通路で、俺の出てきたトイレの入り口は壁になっていた。
「なんだったんだ今の………………」
一気に焦って、一気にそれが引いた反動か。軽い放心状態のまま、まだ列がはけていない最初のトイレを横目に駅を後にした。