YU03 緋沢(ひさわ)の赤い女
朝、混雑する改札を抜けてホームへのエスカレーターを降りる。
別の線との乗換駅でもあるこの駅は、この時間帯は本当に人が多く、停車した電車から吐き出される人々の隙間を縫うようにホームを進む。
既にうんざりした気持ちで乗車位置の先頭に並び、今動き出したばかりの電車を見送った。
どうせすぐに次が来る。鞄の中の文庫本を開くまでもない。
二本の線路と、それを挟んだ向かいのホーム。全体的に味気のない、灰色のそれを視界に入れながら、わたしは今日の予定を頭に巡らせていた。
「……はぁ」
もうすぐ、定年。だというのに大した役職もなくお荷物扱いだったわたしは、先日窓際部署へ追いやられた。
発行する予定のない社史を作るという部署で、無駄に遠い倉庫と部屋を資料を持って行ったり来たりさせられたり、新入社員に軽蔑ないしは憐れみの目で見られつつ自戒を促すような仕事をしている。
自主退職を望まれているのだろう。
勤続年数から、自主退職したとしても退職金は満額貰える。つまり、退職金はやるから早く出て行け、給料泥棒……と言われているような状況だ。
だが簡単に辞めるわけにいかない。妻になんて言う。無能だから早めに退職して家にいる父親、子供たちに馬鹿にされる。
憂鬱な月曜日を映すかのようにどんよりとした灰色。ぼんやりと前を見ていると、一点だけ、赤い色が飛び込んだ。
向かい側のホームの、スーツや学生服の群れ。黒っぽいそれらに混じって、一人だけ、真っ赤なスーツを着た女がこちらに手を振っている。
目深に帽子を被っているため顔は分からないが、影になっていない口元は笑っているようだ。
後ろを振り返るが、彼女に手を振り返す者はない。それなのに彼女は蠢くスーツの群れの中でただひたすら、そこにじっと立ったままずっと手を振り続けていて、疲れを知らないのか笑みを絶やすこともない姿が却って不気味であった。
そうこうしているうちに向こうのホームへ電車が入ってきて、女はそのままそれに乗ったのか、電車が出発した後にはホームから消えていた。
翌日、同じ時間また電車が来るのを待っていると、対面のホームで赤い女が手を振っている。昨日と全く変わらない服装、それもやたらと目立つもの。
さすがにおかしい、目を合わせてはいけないなと感じたわたしは視線を下げて電車が来るのを待った。
水曜。今日は目の前に女はいなかった。
安心しつつも少し同情する。一人ふらふらとさまよう、夢遊病のような、そういう病気なのかもしれない。きっと家族が連れにでもきたのだろう。
わたしもストレスを溜めすぎておかしくなって家族に迷惑をかけないようにしようと自戒した。
到着した電車に乗り込む。座席の前に立ち、何気なく窓の外に目をやると、走り出した電車に合わせて流れていく向かいのホーム、少しずれた位置に赤いスーツの切れ端が見えた。
木曜、前日上の空で仕事をしていて紙で指を切ったことを思い出しながら改札をくぐる。
最近、部署を移されてからただでさえボーッとしている。しっかりしなければ。
そうしてホームへ立つも、昨日の赤色が脳裏にちらつく。
特に気にすることもない、ただ目立つ色なだけの駅の利用客だ。相手がいないのに手を振っているようだったりと不気味ではあるが、若年性の痴呆や精神の不安定、何かしら理由があるのだろう。
あまり気味悪く思うのも失礼だ。
そう思いながら、目線は赤を探す。不思議なもので、初めのうちは見ることが不気味と感じていても、何度か目撃すると視界にいないことの方が不安に感じてくる。
昨日見えた方向に目を移すが、いない。
ホームの見える範囲、右から左へざっと目を通すも、いるのはただ黒、灰、紺。赤は見えない。
今日はいない。
そう安堵して伏し目がちに赤を探していた顔を上げ、もう一度確認しようとしたとき。
つばの広い赤い帽子が目に飛び込んで来る。
女は向かいのホームの階段半ばほどから顔を出し、わたしに向かって明確に、唇だけで微笑みながら、手を振っていた。
金曜。
変な、ストーカー。こんなおじさんに、頭のおかしいストーカー?
本当にストーカーならば家族が危険に晒されるかもしれない。見知らぬ人だが、世の中には初対面の人に執着する人間もいておかしくない。
あれこれ考えてはいるが、本当はもう分かっていた。
昨日、階段で手を振った彼女は、騒めく地下鉄で、行き交う人々の中、階段の途中にじっと立ち止まっていたにも関わらず誰にも見向きもされなかった。
誰もが彼女などいないように進み、邪魔そうにしたり目線を向けたりする者はいなかった。
本当は彼女はいないのではないか。
この世に存在しない、何かなのではないか。
視界の端に赤を捉え、冷や汗をかきながら、駅に入ってきた電車に逃げ込むように乗った。
見ないようにしているのに、わたしが立っていたホームに女がいて手を振っているのがわかる。映っているのだ。窓に、ホームで手を振る女が。
行きたくなかった会社の最寄駅へ向かう電車に、今はただここを離れて目的地へ急いでくれと祈る気持ちだった。
月曜──定期券を取り出し改札に差し掛かったところで、とうとうわたしの足は動かなくなった。
ここを抜ければ、確実に赤いスーツの女がいる。そんな気がして、気づけば改札の真ん前で立ち止まっていた。
「邪魔なんすけど」
「あ、あぁ…………」
後ろから来た若者に道を開けるも、ふらついてしまう。
これではまるで酔っ払いだと自嘲しながら千鳥足で改札から少し離れれば、駅構内がぐるぐると歪んで見えて来て、いつもの駅のはずなのに、人を飲み込み奥は暗く渦を巻いているようにさえ見える。
「はっ、はぁ、」
息が荒くなり、自分の息がうるさい。
過呼吸だろうか。
「あなた、大丈夫?!」
息を整えようと必死になっていると、後ろから聞き覚えのある声が掛かった。妻だった。
「なぜ、ここに、」
「ここのところあなたの様子が変だったから……それより気分が悪いの? 病院に行く? うちに帰る?」
妻は落ち着けるようにわたしの背中を優しく撫ぜると、心底心配そうな目でわたしを見た。
駅に、仕事に行かなくてもいい?
休むことが脳裏によぎった瞬間、呼吸が楽になった。
わたしは、そうか。会社に行きたくなかった。嫌だったんだ。
だから、赤いスーツの人なんて変な幻覚を、そうだ。脳内で勝手に作り出していたのかもしれない。
ストーカーでも不審者でもいいから、自分の気持ち以外で会社に行かない理由が欲しかったのだ。家族に、わたしを嘲る会社の人間に、言い訳が立つような……
「すまない、話があるんだ。会社のことで」
「わかったわ。一旦、うちへ帰りましょう」
家へ帰ると、わたしは妻に会社のことを全て話した。
こんなうだつの上がらないわたしのことを、妻は励まし、受け入れてくれた。
そもそも、わたしが仕事が出来ないことは知っているのだ。くだらない見栄を張らずに相談していれば良かった。
蓋を開けてみればわたしは、窓際族にされ邪険にされていることが言い出せず過呼吸で死にかけた間抜けな男だった。
少しして、緋沢駅で自殺者が出た。線路に飛び込んだらしい。
仕事がうまくいっておらず悩んでいたのが原因とされているが、飛び込む数日前に時代遅れの赤いスーツの女がいたとSNSに投稿していたらしい……とは娘の学校の生徒間で流れている噂だそうだ。
赤い女は本当に駅にいるのか、疲れた心の生んだものなのか。
月曜、あの日も出勤していたらわたしは赤い女に殺されたのか、自ら死んだのか。
ただ一つ言えるのは、今後わたしが緋沢駅を利用することはないということだ。