07. 左利き/毒/嘘
「本当は左利きなの」
後ろめたそうに眉尻を下げると、彼女は右手で左手を握り締めた。
やわらかくくつろいでいた表情はいまや、動揺と不安と緊張でひび割れそうだ。夜明け前のベッドで僕の腕に抱かれ無防備にまどろんでいたのに。彼女はいつも起き抜けにねぼけたまま、左手を伸ばして僕の髪や頬や首をなでる。いつも必ず、左手だ。
だから僕は彼女に指摘した。あなたはいつも左手で僕をなでるね。
「読み書きも食事も楽器の演奏も踊りも、右を利き手としているわ。だから練習して右手も使えるようにしたの。私、すごいでしょう?」
いかにも得意げな顔を作り、胸を焼く毒の痛みをなんとかやりすごそうとするように彼女はおどけて笑った。
彼女はいつもこんなふうに嘘をつく。
高貴な血筋と由緒ある家柄で名高い貴婦人が、一代で財を成した成金の妻になるにはそれ相応の事情がある。
「ありがとうございます。あなたはとても親切な方ね」
情熱の気配や恋物語の余地を許さない僕の実務一辺倒な求婚に、彼女は憤りや失望はおろか、驚きさえ見せなかった。
「僕が親切?」
平民出の成り上がりが上流階級に食い込むために、あなたの貴い血筋と格式高い家柄が非常に有用だ。両親の借金の返済、弟の学費、妹たちの持参金、あなた方の今後の生活費、それらすべてを肩代わりする対価として僕の妻になっていただきたい。
うら若き貴婦人にこんな屈辱的な要求を突きつけた男に、親切な方とは、いささか不適切な評価ではなかろうか。
「僕の説明が拙かったようですね。あなたに誤解をさせてしまったようだ」
「あなたはとても親切な方よ。おまけに正直者だわ。お悔やみの言葉をかけるだけ、心配するそぶりを見せるだけ、助けを求めても聞こえないふりをするだけの方々とは違う」
自分の説明不足と彼女の誤解を懸念した僕に、彼女はいっそすがすがしい調子で答えた。
「あなたが私を助けてくださるなら、私もあなたを助けます。あなたの申し込みをお受けします。私はあなたの妻になるわ」
彼女の両親はそろって薬物の過剰摂取で亡くなった。
その薬物は神経を興奮させ一時的に強烈な多幸感を得られるが、効果が切れると深刻な幻覚や妄想を引き起こし、極めて重篤な中毒と依存症を発症することで悪名高い。
追い打ちをかけるように、父親の投資の失敗、母親の賭博と浪費による莫大な負債が遺されていることも発覚した。
決まりかけていた彼女の婚約はただちに破談となり、醜聞と困窮はたちまち社交界に知れ渡った。彼女や弟妹たちは名家の新たな若き当主と令嬢たちとして、それまでと同じように表面上は礼節をもって尊重されたが、経済的に彼らに手を差し伸べる者はいなかった。
だから彼女は僕との結婚を選んだ。
悲劇の主人公や憐れな犠牲者としてではなく、誇り高い貴婦人として。
自分のために、弟や妹たちのために、生きるために。
自尊心を奮い、感情を御し、速やかに、したたかに。
現実を見定め、要不要を選別し、自らの意思で決断を下した彼女の潔く大胆な態度に僕は心から感服した。上流階級への橋渡し役、その対価として経済的な庇護を与える共同事業者という名目など一瞬で吹き飛び、自分の妻、ひとりの女性として、僕は彼女を尊び、生涯かけて愛そうと誓った。
「結婚式のとき、あなたは左手で署名していなかった」
「本当は左手で書きたかった。だって結婚の署名よ」
後悔と罪悪感に青褪め、彼女は小さな声でつぶやいた。「嘘偽りがあってはいけないわ」
「左利きのあなたが右手で署名したことは嘘偽りかい?」
「大げさだと思っているのね」
彼女はやはり憤りも失望も驚きも見せなかった。親しみ慣れた悲しみと孤独が彼女の表情を覆っていた。
彼女をそっと抱き寄せると、罪人を押さえつけるように左手を握り締めていた彼女の右手の指を、一本、一本、優しく開いていった。僕は彼女の左手を取った。
冷たく暗い水底から美しい宝石をすくいあげるように。
寄る辺ない暗闇でたったひとつ光り輝く星をつかむように。
「大げさではないよ」
僕は彼女の目をまっすぐのぞき込んだ。
かき混ぜられた水面のように揺れていた瞳が、僕をたしかにとらえ、まっすぐ見つめ返した。
「左利きを障害と見なし貶める人は少なくない。無知蒙昧でくだらないやつらだ。でも僕はとても嬉しい。あなたが僕との結婚式をそれほど大事に考えてくれていたなんて」
「当然だわ。あなたは弟や妹たちにとてもよくしてくれるし、私を大事にしてくれる」
「それこそ当然さ。僕はずっとあなたに恋い焦がれていたのだから」
「最初からそう言ってくれたらよかったのに」
想いを抑えきれず初夜に告白したときから、僕はことあるごとに彼女に責められている。契約結婚なのにあなたを本気で愛してしまった、これから夫婦になるのにどうしたらいいの、とあんなに悩まずに済んだのに、と。
「でも、今思えば、あのとき愛しているから結婚してくれと申し込まれても、きっと応えられなかったわ。私にはあなたの想いを受け止める心の余裕なんてなかったから」
「君が僕の罠にかかってくれてよかった」
「あなた、ときどき悪い男ぶるけどお芝居の才能はからっきしよ」
おかしそうに彼女は笑った。
彼女を笑顔にできるなら、僕はどんなことでもしてあげたい。
「利き手の反対の手で字を書けるようになるまで努力を重ねたあなたも、右手で完璧な署名ができるあなたも、嘘偽りないあなた自身だ。僕はあなたの努力に敬意を表すよ。あなたの夫になれたことは僕の一番の名誉だ」
「練習して右手も使えるようにしたなんて嘘よ」
彼女は悔しそうに唇をかんだ。
毒の残りかすがもたらす痛みにこらえきれず、涙がまつ毛にひとしずくこぼれ落ちた。
「そうするしかなかっただけ。両親も家庭教師もみんな、私が左手を使うのを嫌がった。まるで存在してはならない欠陥品のように」
両腕で彼女をきつく抱きしめ、毒を吸い取るように彼女のまつ毛に口づけをした。両手で僕の背中にしがみつく彼女があまりにいとおしくて、心臓が破裂し壊れてしまいそうだ。
「あなたが欠陥品であるものか。あなたは気高く、勇敢で、心優しい人だ。僕にとってあなたは誰より愛しい妻、世界で最も美しい貴婦人だよ」
彼女の両親や家庭教師たちが彼女に与えた毒は、いまだに彼女を蝕み苦しめ続けている。
“すべて自分で選んだことだ”と自分に嘘をつき、自尊心を守らねばならないほどに。
あいつらは彼女を鞭で打ち、頬を叩き、服で見えない場所を殴り、教育と躾の名目で彼女にありとあらゆる不自由と暴力を強いた。ありのままの彼女を認めず、否定し、着せ替え人形のように好き勝手に作り替えようとした。愚かで卑しく浅ましい自分たちの手駒、もしくは装飾品として、奴隷のように従属させ支配しようとした。
使用人として彼女の屋敷に潜入させた部下がよこした報告で、僕は怒りで目の前が真っ赤になった。
幼かったあの日、僕に生きる希望を与えてくれた運命の人を虐げるやつらがいる。
彼女を傷つけ苦しめる毒。許さない。許すものか。
だから僕は決めた。
あいつらに本物の毒の味を思い知らせてやる。
あいつらはもういない。
彼女を苦しめる毒は僕がすべて片付けた。
僕の希望。僕の運命。僕の愛する人。
彼女を笑顔にしたい。幸せにしたい。
そのためなら、僕はどんなことでもしてあげたいんだ。
診断メーカー「3つの単語お題ったー」でピックアップされたキーワードで書きました。
初掲載:https://twitter.com/RainyRhythm27/status/1295692245656408065
ところどころ加筆修正しています。