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短編集  作者: 雨音ルネ
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06. 朝/絵描き/骨

 侍女には朝の散歩にでかけると書き置きを残した。使用人用通路を使って屋敷を出ると、私は渓谷沿いに大小無数の湖が点在する南の丘陵にむかった。

 日傘をくるりと回すとささやかなつむじ風が舞い、麦わらのボンネットにしまった巻き毛がふわりと踊った。


 晴れ渡る空に山々が遠くまでつらなり、ゆるやかな丘の草地に放牧された羊たちがのんびりと草を()んでいる。青々と茂る雑木林の梢のさざめきに野鳥たちの愛らしいさえずりが重なり、澄んだ多重奏の涼やかなハーモニーが響く。

 清らかな渓流にかけられた橋を渡り、きらきらと木漏れ日がふりそそぐ遊歩道をしばらく進むと、小さな湖にたどりついた。磨きあげた鏡のように、夏の美しい青空と濃淡さまざまな彩りをなす木々の緑を映している。


 湖畔の木陰にひとり、男がいた。

 すらりとした体つきより二回りほど大きな仕立ての着古した白いシャツを着て、ゆったりした茶色のズボンをサスペンダーで吊るしている。持ち運びできる折りたたみ式の小ぶりな三脚の画架(イーゼル)を組み立て、そこに木の枠にぴんと張った画布(キャンバス)を置き、黒いチョークのような画材を用意していた。カンカン帽をかぶった頭がくるりとこちらに向いた。私を認めると、彼は人懐っこそうな笑みを光らせ片手を上げた。


 頬に火がつき、顔中にぱっと燃え広がるようだった。

 私は彼のもとに駆け寄りたいのをぐっとこらえた。

 頭の中で自分に言い聞かせる。

 落ち着きと余裕を見せるのよ。

 優雅に、しとやかに。淑女らしく、貴婦人のように。


「おはようございます」

 巣から餌をねだる小鳥のように上ずった声になってしまった。

「おはようございます」

 彼はにこやかに挨拶を返した。「来てくれてよかった」


 湖を背にして、私は水辺にあるたいらな岩に腰を下ろした。日傘を浅く傾け、私は彼と話し合って決めた姿勢(ポーズ)を取った。深呼吸をしてから顔を上げた。画架(イーゼル)越しに、シャツの袖をまくりながら彼が私を見ていた。


 絵描きはみんな、こんなふうに、こんな目で、肖像画を描くのかしら。

 日傘も帽子もさえぎるものひとつなく、薄地の水遊び用ドレスさえはぎとられ、真夏の陽射しをじかに浴びている心地がした。皮膚を焼かれ、私のすべてを奪い、さらけだし、むきだしに暴こうとする眼差しに息ができなくなった。とっさに私は唇をかんだ。熱せられた水面のように全身の肌がひりひりと痛み、身体の中の奥からとろけてあふれる微熱で頭がくらくらした。目眩(めまい)をこらえるため、日傘の柄をぎゅっと握りしめた。


「スカートを整えてもいいでしょうか?」

 思いのほかすぐそばで声が聞こえた。「まだ画材を手にしていないので汚しはしません」

 はっと我に返った。彼がほんの少し身動きすれば、彼の靴のつま先は私のスカートの下に踏み入るだろう。

「えぇ。お願いします」

 ただの返事に、これほど物欲しげな響きがこもらなければいいのに。

 彼は私の足元に片膝をつくと、慎重に、こわごわと、まるで指先が触れただけで壊れてしまう繊細な砂糖細工を扱うように、私のスカートのしわや生地の流れを調整した。

 手袋をはめていない、うっすら日に焼けた大きな手。

 節くれだち、ごつごつした長い指。

 炭や絵の具がしみついた、すこし筋の目立つまるい爪。

 画材で絵を描いているときはよどみなく動く手首が、油のきれたブリキ人形のようにぎこちない。


「今日は来てくれないと覚悟していました」

 うつむいたまま彼がつぶやいた。伏せたまつげが小さく震え、なめらかな頬に影が落ちた。

「なぜですか?」

 日射病患者のようにうっとり見惚れながら私は彼に問いかけた。「あなたはまだ私の肖像画を描き終えていないのに」

 耐えかねたように彼が歯を食いしばった。彼の苦しげな様子があまりにいたいけで愛らしく、いつもの老成した親密さに翻弄されてばかりだった私を満足させ、思い上がらせた。

「僕はあなたを笑わせるようなおかしなことをしましたか?」

「いいえ。ただ、昨日のあなたを思い出してしまって」

 彼は雷に撃たれたように顔を上げ、固まった。


 膝が痛い。彼の大きな手にスカートごと鷲掴みにされたせいだ。

 せっかく彼が絵に映えるように整えてくれたのに、その彼がしわくちゃにしてしまった。


 もう一度彼に触れてみたい。昨日のように手袋をはずして。

 もう一度彼に触れてほしい。昨日のように手の代わりに唇で。


「申し訳ありません」

 彼は鞭打たれたように手を離そうとした。私は自分の手を重ねてそれを止めた。お願いだからやめないでと懇願するように。彼は私の手をよけなかった。払いのけなかった。吸いつくように彼の手が再び私の膝を包み込んだ。指先と手のひらで私の形を覚え、味わい、刻みつけるように。


 夏の朝の陽射しが絵描きの頬骨をくすぐった。

 私と見つめ合う彼の瞳は溺れそうなほど熱っぽく、波立つ湖面のようにきらめいた。

診断メーカー「3つの単語お題ったー」でピックアップされたキーワードで書きました。

初掲載:https://twitter.com/RainyRhythm27/status/1292481568263479296

ところどころ加筆修正しています。

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